●『獣になれない私たち』の第九話をHuluで観た。ドラマの最初の方の回で、新垣結衣から八嶋智人へと位置をかえて伝播した「土下座」が、ドラマも終盤にさしかかったところで(大きく遅延して)松田龍平のもとに返ってくる。しかもここでは、土下座そのものではなく「あきらかに直前に土下座をしていたと思われる姿勢」として(ここの演出が渋い)。伏線の張り方がきれいだというのは、まさにこういうことだ。
ドラマの最初の方では、「みんなから利用されている都合のいい女」と「上手く立ち回って気ままにやっている男」という正反対の位置(役割)にいた主人公の二人が、九話分の時間をかけて、少しずつ部分的にパースペクティブを交換していき、ここにきてついに、ほとんどそっくりな、似たり寄ったりの状況になって重なる(松田龍平さえも土下座する)。そして二人はとうとう男女の関係になるのだが、行為の直後にヒロインに「間違った」と言わせるという、ある意味で徹底した反恋愛主義的な展開がみられる。
このドラマははじめから、一見して相容れない、まったく似ていないと思われる人物たちの間にでも、少なくとも部分的にはパースペクティブの交換が可能であることが、あるいは、関係することを通じて自ずとパースペクティブの交換が生じてしまうということが繰り返し示されてきた。決して相容れないように思われる立場にある人物たちの間で「相似形(対称形)」---たとえば「土下座」---がやりとりされることで、そこに交通(和解)が---部分的に---生じる。
このことのポジティブな面が最も高まったのが九話の前半であろう。新垣結衣松田龍平は、夜通しゲームに興じて、二人で朝のコーヒーを飲みにいき、新垣結衣黒木華田中美佐子は三人で酒の席を囲む。しかしこのドラマは、プラス一があれば必ずマイナス一もあるというようなバランスで成り立っている。パースペクティブが交換可能であることのポジティブな側面から、後半になって、交換可能性のネガティブな側面へと一気に反転が起こる。新垣結衣松田龍平黒木華も、交換可能であることによって「現状」に縛られるしかないことをつきつけられる。
この「交換可能性のネガティブな側面」において、新垣結衣松田龍平の間に「完全なパースペクティブの交換」が起こったかのような錯覚が生じ(二人は並行的なモンタージュによって重ねられる)、ついに二人を男女の関係へと踏み込ませる。しかし、パースペクティブの交換は常に起こっているが、それは、相似的形態を介した媒介的なものであり、部分的なものであるというのが、「恋愛はいらない」というようなことを語る新垣結衣が、このドラマの九話分をついやして至った認識であるはすだ。故に新垣結衣は、性行為の後に「間違った」と言うのだろう。