2022/12/14

Amazonのプライムビデオに「『スパイの妻』公開記念 黒沢清監督 ティーチイン・セミナー」という動画があったので、なんとなく観ていた。

二人の人物の対話を切り返しで撮るときの話で、切り返しというのは(映画独自の)強烈な表現なので、一本の映画の中で「ここぞ」というところにしか使わない、そして、多くの場合、切り返しのカットを撮る時に、対話の相手は置かずに、発話する俳優だけを単独で撮影し、「ここに視線をください」という抽象的な(本来そこに相手がいるはずの)位置を指定する、と言っていた。そうすると、相手の俳優との呼応がなくなるから、ダイアローグというよりモノローグに近づいてくるのだ、と。

それに対して、今泉力哉が、切り返しを使う時には、なめる(対話の相手の背中や肩をフレームに入れて、背中越しに発話者を撮る)場合と、なめない場合があると思うが、それをどう使い分けているのか、というようなことを質問した。

黒沢清は、面白いところをついてきますね、みたいなことを言って、本来ならば、発話者だけを単独で撮りたいのだが、それを徹底すればするほど、どんどん小津に似てきてしまう、別に小津の真似をしようとしているわけではないとは言えないくらいに、小津に似てしまう、だから、小津に似ない程度に「なめる」カットを混ぜて、しかし重要なところは「なめない」で、単体で撮る、と。

切り返しのようにカットを割って撮ると、編集によって後から、演技を監督が求めているリズムに近づけることができるが、長く回して芝居を撮ると、その時に俳優が演じたリズムを変えることはできない。だから、小津のような、自分のリズムが絶対的に重要な人はカットを割って撮る。自分(黒沢清)はどちらとも言えない。自分のリズムにどうしても従わせたいところはカットを割って撮るが、長く回すところは、「このセリフの前にあんなに長く間を開けたのか…」と感じても、まあ、それはそれでアリかと受け入れる、と。

シーンを構築するのにも、カメラの位置と、俳優の動きとカメラの関係はかっちりと最初に指定して、そこに肉づけするような、演技のニュアンスみたいなものは、基本的に俳優に任せるというのも、初期の頃から変わらない感じなのだなあと思った。

ここだけはガチッと決めるというところがあって、それ以外はその場の状況に任せるとか、構造だけはちゃんと作って、その表層に何が乗っかるのかは、こだわりが緩くて交換可能(融通無下)だ、というようなところに、ぼくはかなり影響を受けているのだなあと、改めて思った。