●『半島論』のイベントでお会いした時に井上さんと黒川さんが話題にしていた、柄本明が監督した『空がこんなに青いわけがない』を(もうすぐ配信が終わってしまうということもあり)U-NEXTで観た。93年の映画。黒沢清の『ヤクザタクシー』(94年)より前で、相米慎二の『お引越し』と同じ年、ということで、どんな時代背景でつくられたのかをざっくりイメージする。
おそらく、誰が観てもいろいろ上手くいっていない映画だということが分かると思うし、しかも、最初の数カットを観ただけでそうと分かってしまう感じだ。その時代の空気をある種の「恥ずかしさ」とともに感じる、という類いの作品とも言える。うーん、ちょっときついかなあとと思いながら観るのだが、しかし次第に、たんに「シネフィルっぽく撮ろうとして外してしまった」といって済ますことのできない味わい深さを感じ、そしてときどき、ハッとするような面白い細部があったりもする。
おそらく柄本明は相当なシネフィルなのだろうと思われるが、もう一方で、発想の基がどうしても映画ではなく演劇なのだろうとも思われる。そのちぐはぐさが、奇妙な味わいのような形で現れるのではなく、どこまでもちぐはぐで、なんとも「決まらない」「締まらない」感じとして出てしまっている。でも、そのすれ違うちぐはぐさにこそ、今、みるべきものがあるのではないかとも思う。
時代の空気を「恥ずかしさ」として感じると書いたが、この時代にはあった「この感じ」は、今ではすっかりなくなってしまっている。「この感じ」のもつ可能性を、現代では誰も追わなくなってしまっている。たとえば八十年代の黒沢清には、この映画に近い「感じ」があったのだけど、現在の黒沢清は「この感じ」をほぼ切り捨ててしまっているように感じる。あるいは、昨日の日記に書いた『獣になれない私たち』とこの映画を比べてみると、隔世の感があるというくらいになにもかも違っている。では、「この感じ」はもう完全に古くなってしまったのだろうか。
この映画では、いろんな部分がことごとく上手くいっていない、ちぐはぐであるということは否定できないと思う。しかしだからこそ、観ている間じゅうずっと、この場面を自分だったらどう組み立てるだろうか、この演技を自分だったらどのように俳優につけるだろうか、このカットは自分だったらどこにカメラを置くだろうか、このカットを自分だったらどのタイミングで切って、どのカットとつなげるだろうか、というかそもそもロケ地に「この家」は選ばないのではないか、などと、ずっと考えてしまうのだ。上手くいっていないと思うからこそ、そんなことを考えるのだけど、しかしまったく面白くないと思ったらわざわざそんなことを考えたりしない。「この感じ」には未だ汲み尽くされていない可能性が潜在している、なんとか上手いことやることができれば、何かしらの新しいやり方を見つければ、現在においても「この感じ」を生かした面白いことができるのではないかと、どこかで感じているからこそ、そんなことを考えてしまうのだと思う。
『空がこんなに青いわけがない』という映画は上手くいっているとはとうてい言えないものだと思うし、実際、これ以降、柄本明は映画を一本も監督していない。しかし、この映画が示した(というか、示し切れなかった)ものは、未だ死んではいないのではないか、まだまだやるべき余地が残されているのではないかと思わせる、なんともむずむずした感じを惹起させるものだった。つまり、いろいろと刺激されたということだと思う。