●喫茶店で原稿のゲラの直し。それを近くのコンビニからファックスで送って、別の喫茶店に入って、『秋季限定栗きんとん事件』(米澤穂信)を半分だけ(上巻だけ)読む。
新たな登場人物である、野心的な若者を加え、その男の子と「小市民」小鳩くんとの、「おれ」と「僕」の二つの一人称が交差することで語られる。そして、小山内さん暴走の予感さえもが…、しかし…。
まだ半分だけで、今後の展開をみなければ何とも言えないところも多々あるけど、米澤穂信は何と理知的な作家なのかと、つくづく思う。ぼくが知っている限り、現代の日本の作家で、知性だけで小説を組み立てられる唯一の作家なのではないかと思う(それは、ミステリとしてのトリックが凄いという次元のことではない)。しかしその小説は、決して知性だけを(知性によって取り扱い可能な範囲だけを)取り扱っているのではない。世界のわけのわからなさ、とんでもなさ、おそろしさと、知性によって対峙するような作家だ、という意味。そしてさらに、その知性そのものの危うさや限界までもを、あくまで知性によって描こうとしているように思われる。それは最良の意味での「啓蒙」という効果をもつように思われる。この時啓蒙とは、高みにある者が下々に向かって余裕げで上から目線で行うものではなく、それを「書く」側も、ギリギリの先の見えない地点からの探求によってもたらされる効果なのだと思う(だからこそ、「小市民シリーズ」の「秋」篇の刊行がこんなに遅くなったのだろう)。ただ、その表現は、かぎりなく「親切」で分かり易いのだ。
特になんということもない、小さな「日常の謎」を描いたキャラクター小説風のミステリのようにもみえる『春期限定いちごタルト事件』があり、そこから看過できない亀裂をあぶりだす『夏期限定トロピカルパフェ事件』を経て、とうとうこんなところにまで来てしまったのか、と思うのだった。ただ、『ボトルネック』などでは、やや性急にニヒリスティックな方向に走り過ぎているきらいもあったので、今後の展開がどうなるのかが、とても楽しみでもあり不安でもある。確か、樫村晴香がどこかで、「ハンスに多過ぎるものは知識であり、足りないものは哲学である。彼は訓練を欠いている」というようなことを書いていたと記憶している(あやふやな引用)。そのような「ハンス」にこそ読まれるべき小説だと思う。アンチ「萌え」小説。