●『犬はどこだ』(米澤穂信)。おそらくこれは、この作家の唯一の、ライトノベル系の読者を想定しないで書かれた(そのような「縛り」なしに普通のエンターテイメント小説として書かれた)作品なのではないか。だから、本も厚目だし、字も小さめで、描写もゆったりした厚みがあるし、遊びも多く、なにより「大人の話」だ。普通にエンターテイメント小説としてみた場合に、一番良く出来ているといえるのかもしれない。しかしその分、予想外のところまで連れて行かれるような「突き抜ける」感じは、希薄だといえる。それは、少年、少女を主な登場人物として語られる話では「成長」として描かれるものが、この作品では「挫折=眠り」からの「復活=目覚め」として語られる、ためなのかもしれないが。(小説で実際に描かれることの大部分は「眠り=淀み=猶予期間」の部分で、だからこそ、ゆったりとした「遊び」が必要となるのだろう。)いや、ちゃんと「意外な結末」は用意されているのだけど、それはあくまでエンターテイメントとしての「意外な結末」であろう。(以下、ネタバレを含む。)
ハードボイルドであり、ハードボイルドのパロディのようでもある。ハードボイルドの探偵は行き当たりばったりに(ご都合主義的に)事件の核心に迫る、ということを、あえてなぞっているように見えるが、最終的にそれは(そうと意識しているわけではない)「犯人」によって誘われたものだ、という説明がつくようになってもいる。行方知れずの女を追うことで話が展開するというのも、ハードボイルドの王道なのだろう。(あまり詳しくはないけど。)
主人公の一人称で展開するかと思われた話が、途中で、助手の一人称も混じり、二つの一人称が平行して語られることとなる。二つの依頼、女の捜索と古文書の解読が平行して進み、それが(ご都合主義的に)重なる。この二つの一人称への分裂は、読者には知らせておくべきだが、主人公には知らせてはいけない情報を読者へと提示するための手法であろうが、この作家の特徴である、ちょっとした(軽く見られがちな)人物のみせる意外な「厚み(手強さ)」が作品の奥行きをつくる、という効果もある。
主人公の助手であるハンペーという人物は、古文書の調査をする過程で、「歴史」を知ることによって「現在」への認識が更新することの喜びを感じる。そしておそらくこれこそが、米澤穂信のすべての小説に共通している姿勢だと思われる。(それが必ずしも「喜び」を生むとは限らないが。)現在、主人公に突きつけられた事件は、その由来や来歴を、過去に遡って調べることによって、つまり、現在に残された過去の痕跡を読み解くことによって(知的な解読作業によって)はじめて、その姿をあらわす。その来歴を知ることで、「今見えているもの」が、まったく違った姿に見えるようになる。歴史は、あくまで「現在」の「私」の都合によって構成されるしかないだが、しかしその構成された図柄は決して「現在」にも「私」にも還元されない「世界」に属するものだ。米澤穂信が反セカイ系だというのは、そういうことだろう。
しかしそのような、痕跡から「歴史(筋道)」を構成する過程(知と行動)は、この小説の加害者でもあり被害者でもあるネットストーカーの行使する「知」や「行動」と、まったく同じものでもある。実際、探偵は、このストーカーとほぼ同じ道筋で「女」の行方を探り出す。だからこの小説は、被害者が加害者に反転するだけでなく、探偵が加害者に反転し、そしてまた被害者にも反転し得るという複雑な事態を示してもいる。ここで、ネットストーカーと探偵とを分けるものは、他者からの「依頼」の有無に(あるいは自らの欲望=執着の有無に)過ぎない。しかしだとしたら、終盤の探偵の、依頼の範囲を超えた、探偵自身の「意思」による行動は、一体何によって支えられ、何によって肯定されるのか。この小説は、「運命論者(受動性=眠り)」から、「意思をもって行動する者(能動性=目覚め)」への変化を、単純に肯定しているわけではない。(女が、被害者から殺人者へと反転するのも「積極的な能動性への意思」によるものなのだ。)小説はその点を宙づりにしたまま、後味悪く終わる。
●これで、米澤穂信の本になっている小説を全部読んだのだが、ますます、〈小市民〉シリーズの次の作品を一体どのように書くのか、期待する気持ちが強くなった。