ほうほう堂×チェルフィッチュ「耳かき」

●横浜のSTスポットに、ほうほう堂×チェルフィッチュの「耳かき」を観に行った。行ってみて驚いたのだけど、STスポットのあるSTビルは、(長い)浪人時代にぼくが通っていた予備校のすぐ近くのビルで、毎日このビルの敷地を横切って予備校に通っていた、そのビルだった。(正確に言えば、はじめて予備校を訪れた時、このビルは建設中で、その後もずっと、延々と建築中で、ぼくがこのビルの敷地を横切って予備校に通うようになるのは三浪目のことで、それまでは建築中のビルを見上げつつ、敷地の外を大回りして通っていた。)あと、横浜駅からダイヤモンド地下街へ抜けるあたりはいつも凄く人が多くてごった返していて、ぼくの体感的には新宿や渋谷以上に人が多い感じで、それなりに鬱屈していた浪人時代に、この人の多さにいつもイライラしていた、そのザラザラした感触をちょっと思い出した。予備校の帰りによく寄っていたダイヤモンド地下街の有隣堂を覗いてみたのだが、本の配置がほとんどかわっていないみたいだった。記憶の遠近法がおかしくなっていて、懐かしいというより、つい二、三年前まで頻繁に通っていたような感じに思えた。(実際にはもう二十年近く前の話だ。)
●二人の女性ダンサー。一人がテキストを読み、もう一人が踊る。途中で交代して、踊っていた人がテキストを読み、テキストを読んでいた人が踊る。特にダンサーという感じでもない、普通の感じの背の小さい女の子が、普段着みたいな衣装で立っていて、右手をブラブラと揺らしはじめると、後ろの壁に映像が投射される。洗濯バサミで吊られて干してある靴下が、ダンサーの手と同調するように、風でゆらゆら揺れている。足を洗っている時に実は足を見ていないで、指の間のどこでもない場所を見ている、みたいな感じのテキストが読み上げられ、足の先が勝手に動き出してしまい、身体の他の部分が後からそれについてゆくという感じの動きが始まる。
一人目のダンサーは、足先とか手とか腰とか、身体の一部分が、それ自体で勝手に(自律的に)動きだし、それに身体の他の部分が引きずられるようについてゆく、という感じの動きのバリエーションのように見えた。これってある意味、古典的なパントマイムみたいな手法のようにも思えるけど、それと違うのは、身体のバランスが常に崩れていて、支点が定まらない感じで、その「崩れ」をどう動かしてゆくか、ということをやっているようだった。だから、形として、うつくしいポーズが決まることはなくて、ピーンと緊張の漲った形や動きのうつくしさをみるようなものではなくて、ある崩れ方から別の崩れ方へと移行してゆく、その「動く」感じをみていた。ある「崩れ」から別の「崩れ」へと崩れてゆく、と言えば言い過ぎで、実際にはそこまでは出来ていないとは思う。こんなことは当たり前のことかもしれないのだが、ダンスというのは人間が不安定な二足歩行をはじめたことと密接な関係があるのだなあと思った。もし人間が、安定した四つ足の歩行をつづけていたら、ダンスなどあり得なかったのではないだろうか。二本の足で立つ、というのがあるからこそ、それが崩れたり、べたっと横たわったりすることが可能になる。
二人目のダンサーは、一人目の人に比べて形が割と決まっていて、動きにも切れがあり、普通にダンスっぽい。軽やかにくるくると回転したりもする。これは一人目の人との対比というのもあるのだろうけど、二人目の人は動きに常にバランスが保たれていて、「崩れる」という感じはない。手先や足先から先に動きだしていったり、だらっと横たわったりというような、似た動きをしても、バランスが保たれていると、こうも見え方が違うのか、と驚く。この辺りでは、岡田利規によって書かれたテキストは、かなり内観(内感)的になっているのだが、ダンサーの動きそれ自体は外観(外感)的な感触になっている。二人目のダンサーを見ながら、一人目のダンサーと一緒に踊ったら一体どんな感じになるのか、とても楽しみに思えたのだけど、二人が一緒に踊ることはなく、そのまま終わってしまった。
このダンスの面白さは、おそらく、とても内的な感覚によって導き出された動きによってつくられているのだろうと思われるのだが、それが安易に「表現的」、あるいは「感情的」なものに結びつくのではなくて、内的感覚(内観的感覚)を、ひとつの素材のようにして、距離をもって扱っているような感じがあるところだと思われた。何と言うのか、動きは「外」から与えられるのではなく、あくまで「内側」から発せられるのだけど、その「内側の感覚(によって導き出されたもの)」を、外から見る(もう一度外から捉え直す)ようなクールさがある、とでも言うのか。だからこそ、決して超絶的な技巧があるわけでも、それを志向するわけでもないようなダンスなのだけど、かといって、安易な(居直り的な、幼児的な)表現主義的表現性にもたれかかるのでもない、クールな作品になっているのだと思えた。
小さなスペースでダンスをみることの迫力というのはある。ダンサーの関節がポキポキと鳴る音や、床に頭や身体をこすりつける摩擦音まで、生々しく聞こえるというような。そしてこの作品は、そのような「近さ」によって成り立っている度合いが大きいように思えた。もし、もっとずっと広くて、客席から遠いような場所でやるとしたら、一体どうなるのか、それも観てみたいと思った。