●『追想五断章』(米澤穂信)。この小説でぼくが一番印象的だったのは、最初、主人公芳光の相棒であり、けっこういい感じのペアのように思われた笙子という女性が、物語の途中で唐突に、「わたし就職もあるし」みたいなことを言って事件からさっさと身を引き、小説からも完全に姿を消して、それっきりになってしまうという点だ(現実的に考えれば身につまされるようにリアルなのだが、小説としては、重要人物と思われた人が、あっさり跡形もなく退場してしまうのはめずらしいと思う)。主人公が、なんとかして実現したいと思いつづけていた大学への復学をあきらめたのも、笙子があっさりと事件から身を引き、古本屋のバイトもやめてしまったことと、とても大きな関係があるように思われるのだ。笙子は当初はあきらかに芳光に気があるかのように描写されているのだが、それは結局、彼が普段自分の身の回りにいる人物たちとはちょっと違った雰囲気を持っていることに惹かれていただけで、話がシビアで具体的なところに入り込みそうになった途端、笙子はあっさりと現実的な「就職」の方を選択して芳光からも、小説の舞台からも離れてゆく。そしてその事実が、経済的な困難で休学を余儀なくされてはいるが、事件をきっかけに、うまくすれば「笙子の側」へと復帰できるのではないかという期待を持っていた芳光に、「あっち側」からは完全に零れてしまったのだという、決定的に苦い認識を強いることになる。その苦い認識は、物語上で、芳光に、五つの短編小説を書いた人物への思い入れを加速させるものであると同時に、米澤穂信の小説に、時に表となり時に裏となって、いつも響いている調子でもあるのだ。実際に「小説に描き込まれた芳光の反応」としては(つまり主人公の意識の「表面」としては)、「まあ、しょうがねえか」みたいな、クールであっさりしたものであるのだが、このようなところにこそ大きな衝撃が刻まれている点に、この作家(いつもの)独自の屈折した感触がありもする。この作家の登場人物は常に理知的であり、感情的には低温を維持していて、理知的であることが苦い認識(厳しい現実)や屈折(感情の揺れ)に対する「防衛」として機能しているのだが、しかしその防衛は結局は決壊する。しかし決壊して(何かを諦めても)もなお、最後まで理知的であることを手放さない(あるいは、手放せない)。だからこそ、苦さがいっそうの苦さとしてあとに残る。ぼくにとっては、このような感触こそが米澤穂信という作家であるように感じられる。
だからこの小説でもっとも力をもつ人物は、途中でいなくなってしまう笙子という女性であり、彼女によってもたらされた苦い認識こそが、この小説の基底にあると言える。それら比べれば、事件の真相やミステリとしての仕掛けなどは、二次的、三次的なことだとさえ感じられる。
最終章として置かれた小説内小説「雪の花」で、自殺する男が妻について、《あいつはこうすることで、俺を決定的な置き去りにしたのだ》という言葉を残して死に、それに対して小説内小説の話者が、《しかし私は、そうはなるまいと思う》と応じるとき、ここには芳光と笙子の関係こそが、というか、芳光の笙子への感情こそが響いているように思われる。
●必要があって『リンダ・リンダ・リンダ』(山下敦弘)をDVDで久々に観直した。よかった。制服姿が異様にハマッている香椎由宇と、制服姿が異様にハマッていないペ・ドゥナを並べて配置したというセンスだけでも、この映画の八割方が支えらてれるように思う。説話内容でも、アクションでも、説話技法でも、イメージの展開力でもなく、ひたすら描写の冴えによって、一種のユートピアを出現させている(つまり「描写」というのは「配置」でもある)。はじめの方にある、学園祭直前の学校の廊下の横移動の長回しは、このカットだけで『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』を超えてしまっているようさえに思う。バスの場面がとてもよくて、最近、バスに乗ってないな、と思って、バスに乗りたい、と思った。ペ・ドゥナに告白するマッキーという男の子の役をやっているのが松山ケンイチだったのに驚いた。映画を観た勢いが収まらないままカラオケに行って、「僕の右手」(ブルーハーツのオリジナルはまったく知らないけど、ペ・ドゥナの真似をして)とか「すばらしい日々」(ユニコーンはこの曲しか知らない)とか歌った。