●『リンダ リンダ リンダ』(山下敦弘)。この映画は、繰り返し観れば見るほど、そのすごさが迫ってくる。山下敦弘のなかでも特別に上手くいっている作品だと思う。五年くらい前にはじめて観た時の日記を読んだら、「へー、悪くねえじゃん」くらいの反応で、「お前、何もわかってねえな」と五年前の自分を説教したくなった。
二時間の間すこしも緩むことなく、すべてがすばらしいと思うのだが、特にすばらしいのが空間の造形-把握だと思う。溝口健二と比較したっていいんじゃないかと思うくらいにすごいんじゃないだろうか。これ以前のこの作家の映画ではそれ程目立たなかった、縦の構図というか、手前と奥という空間の深さを利用した場面が多いのだが、それはおそらく学校という空間から引き出されたのだと思う。
何かを褒めるために別の何かを貶めるとか、何かをけなすために別の何かを持ち上げるということは本当に下らないことだとは思うけど、二、三日前にたまたま観た『空気人形』が驚くほどに面白くなかったのでついつい比べてしまうのだが、例えばその『空気人形』にしても、リー・ピンビンによるすばらしい風景のカットがいくつもあるのだが、しかしそこでそれはたんに「よいカット」であって、そこから躍動するような空間がたちあがってくることがまったくなかった。板尾創路の住む家や、板尾が車いすペ・ドゥナを連れてゆく公園など、ロケーションとして、空間それ自体として面白そうな場所はいくつも出てくるのに、それがたんにグラフィカルな次元としてあるだけで、空間としては全然生かされていないと思った。
対して『リンダ…』では、例えばなんでもない狭苦しい直方体でしかない部室が、魅力的な空間としてたちあがっている。最初に部室が出てくる時は、カットを(空間を)細かく割って見せたり、扉を開いておいてその外まで構図におさめたりして、部室の狭さをそれほど感じさせないのだが、次に、ペ・ドゥナがはじめて部室を訪れる場面では、部室の扉の外側の視点から内側を撮ることで(ペ・ドゥナと他の三人の距離をみせつつ)部室の狭さを感じさせる。そして、四人による練習が始まると、やや俯瞰ぎみの構図によって四人の演奏を同時に捉えつつ、部室のスケールを正確に理解させる。その後も何度も部室が出てくるのだが、ちょっとしたカメラの高さや画角、切り返しのタイミング、窓や扉の外の空間の活用、カメラの位置の微妙な変化などによって、なんの面白みもない四角い空間が、その都度あらたな表情をもつものとしてたちあがる。それはたんに「構図」といった静態的な問題ではなく、カメラの位置(高さ、方向)とフレームの限定範囲の問題であり、そのなかでの俳優(や他の動くもの)の動きとその組み合わせであり、前のカットさらに次のカットとの関係であり、あるいはそれらの流れや切断のタイミングであり、さらに、別の場面との関係であり、そういう諸要素がすべて重なったところに立ち上がるのが映画の空間なのだと思う。ロケーションや構図やモンタージュや演技が別々のものとしてあるのではなく、それらすべてが絡まり、それらすべての関係によって空間が生まれ、動いてゆく。
そしてそこには、俳優たちの「見かけ(顔とか体型とか)」上の組み合わせや、制服の着かたのちがい、小道具の選択や配置などまでも含まれる。さらに、どの場面の次にどの場面が置かれるか、あるいは、エピソードをどのような順番で置いてゆくのか、ということも含まれる。例えばこの映画では、女の子たちのバンドで何が起きていて、誰と誰とがどのような理由でケンカになっているのかなどは一切説明されないのだが、それはエピソードの置かれる順番によって、見ている観客には自然に理解されるようになっている。そこでは、どのタイミングで何が理解されるのかということが重要で(例えば、香椎唯宇と喧嘩しているのは「この子だったのか」と分かるタイミングだとか)、それこそが「あらすじ」とは異なる出来事の動きと連鎖であり、場面と場面との関係やネットワークの生成である。それ(エピソードの順番)が「語りの技法」としてあるのではなく、あくまで他の全ての要素と結びついた「(映画としての)空間の創出」のための一つのパートとしてあるのだと思う(だからその時、時間と空間とは別のものではないのだが、時間と言ってしまうと単線的な流れを想起してしまいがちなので、とりあえず時間の配置としての「空間」としておく)。だからおそらく、エピソードの順番や配置まで含めて(「語り」ではなく)「描写」なのだと思う。
●あと、この映画には二つの異なるリアリズムがある。一つは、映画の冒頭で文化祭をビデオで記録している学生たちが属する、素朴な、いわばあるあるネタ的なリアリズム。ここには、実際の高校生の姿にきわめて近い、高校生独自のなまなましい「痛さ」が刻まれている。山下敦弘にはあきらかに、このようなあるあるネタ的なリアリズムへの強い指向(嗜好)性がある。しかし、この映画の主な部分はそのようなリアリズムとはまったく異質な、様々な細部の複雑な関係性によって立ち上がる「描写」のリアリズムにある。そして、最初のリアリズムから二つめのリアリズムの世界へと、廊下を移動するあのすばらしい横移動のカットによって移動してゆく。
(舞台となる学校には、教室のある棟とサークル棟のような棟の二つの校舎があるのだが、廊下を移動するこのカットに続くカットで、この映画で唯一、二つの校舎を結ぶ渡り廊下が映される。)
山下敦弘は、おそらくこの二つの異質なリアリズムの間にいて、その間を常に行き来しているように思われる。この二つは異質だが、決してまったく無関係ということではない。そこに、この作家のあやうさと独自性とがあるように思われる。