●今回の群像新人賞を受賞した中納直子という人の小説を、二年ちょっとくらい前に読む機会があった(受賞作とは別の作品)。「ミステリィ・ツアー」というタイトルのその小説はたいへんに面白くて、別の作品もぜひ読んでみたいと思ったし、ぜひ小説家としてデビューしてほしいと思った。なので、「群像」の目次にその名前をみつけた時はおーっと思ったし、受賞作(「美しい私の顔」)をすぐに読んだ。正直に言えば、ちょっとわかりやすくまとめ過ぎというか、「ミステリィ・ツアー」の方が数段良かったのではないかと思うのだが(「小説」としては数段上手くなった、ちゃんとした、のかもしれないけど、その分、固有な面白さが薄くなってしまった感じ)、とはいえ、終盤の数ページに、おそらくこの人にしか書けないんじゃないか思われる、「ミステリィ・ツアー」の時と同等の感触が感じられた。
小説の形式とか「書くこと」とかに意識的な作風というより、割合と素朴に書かれた小説という感じなのだが(普通に、主人公に共感して読むことが出来るような)、上手く言えないけど、世界との呪術的な関係性によって、ヤバイ何かをぐっと掴んで引き寄せてしまうような独自な感じがある。決して、呪術的な話ではないし、呪術的な文体というのでもないのだが、主題を追いこんでゆくうちに、何かずぼっと変なところへ突き抜けてしまうような感じ。というか、(ただ歩いているだけで霊がくっ付いて来てしまう人、みたいに)変なものを巻き込んでしまうというべきか。関係が追いつめられてゆくときに出てくる、関係のなかにある暗くてじめっとした感触を「嫌な感じ」ではなく描き出せるというか。あるいは、世界との関係が途切れてしまった時に出てくる、じとっとした感触、とか。
受賞作においては、主題の突き詰め方そのものは、まあ、普通だよね、という感じなのだが、その突き詰めの過程で変なものがぽろっと出てくる。確かに、ただの「闘病記」のようにも読めてしまうけど、それは一方で、病気を決して小説に都合の良いようには使わない、安易な比喩として扱わないという態度の現れでもあって、だから、病気によって露呈する場-関係(職場、姉妹、恋人)の変質のあり様が具体的でリアルなものとなるのだと思う。おそらく、顔面神経麻痺という病気そのものやその闘病が描きたかったのではなくて、それによってあらわれる関係の煮詰まりや、煮詰まりのなかでぽろっと出てくるその先の何かを書きたかったのではないかと思うのだが、でも、書いてみたら思った以上に病気に振りまわされてしまって、終盤になってようやく描きたかったことをぐっと引き寄せた、という気がする。
正直、前半は、小説世界の設定の説明を延々とされているという感じだったのだが(この駒はここに置いて、この駒は三手先のためにあっちに置いといて、みたいな)、しかし、世界の目が一つ一つ詰められてゆき、記述が重なって行くにしたがって、だんだん手応えが感じられるようになってきて、人物たちもリアルになり、終盤になってようやく、この作家に固有の密度というところにまで到達する感じ。あと、脇役がとても魅力的(読みながら、じつは主人公より姉の方を描きたいんじゃないかと思えてきた、例えば、有馬くんのようなキャラクターを成立させられるのは小説家としての「腕」だと思うけど、リアルなのは姉の方だと思う)。とはいえ、受賞作では、まだまだ本領が発揮されているとは思えない。
この作家の次の作品を楽しみにするのと同時に、どこかで「ミステリィ・ツアー」が読めるようにならないかなあ(へんに手直しとかせずに)とも思う。
●それで、新人賞の授賞式をのぞいてきた。護国寺までゆく電車のなかで評論部門の当選作「1%の俳句」を読んでいて、俳句ってけっこう(他の文芸ジャンルよりむしろ)絵画(タブロー)に似てるんじゃないかと思った。筆者の彌榮浩樹さんに、なにがきっかけで俳句をはじめたんですかと尋ねたら、三十を過ぎてから(確か32歳と言っていたと思う)、ある日とつぜん電車のなかで「俳句だ」と思った、とのこと。