●最近、大島渚にちょっとハマッている。ぼくにとっての大島渚再発見、というか。きっかけはレビューを書くために『日本の夜と霧』を観直したらすごく面白かったことから。大島渚を百パーセント好きな作家ということは出来ない。むしろ嫌な部分というか、うんざりしてしまう部分が多々ある。その象徴的表現は粗雑でいかにも古臭いし、「時代と寝る」的な(この言葉自体が既に死語だが)ライブ感は浅はかに思えるし、なんといっても、多くの作品から濃厚に漂ってくるホモソーシャルなにおいは時に耐え難くさえある。しかし、それを差し引いてもなお、痛烈に面白い。おそらく十年前のぼくだったら、面白いと思える部分よりもうんざりする部分の方を強く感じてしまっていただろう。うんざりする部分が以前程は気にならなくなったのは、そのような部分がより徹底して「古臭く」なったから、そこにそれほど強く反発を感じなくなった、ということかもしれない。このようにして、作品は「古典」となってゆくのか、とも思う。
最近、観直したもののなかでは、特に『帰ってきたヨッパライ』と『無理心中 日本の夏』が面白かった。『帰ってきたヨッパライ』は、語りの形式性からみても、内容も、今観てもまったく古びていない傑作だと思う。反復と交換、形式とその外(現実)との関係ということを、こんなに見事に形にした作品そうはないと思う。『無理心中 日本の夏』は、前衛的な『椿三十郎』みたいであり、タルコフスキーみたいでもあり、内容的に限りなくナンセンスに近づきつつ、形式的に極限まで過激になっていた九十七、八年頃の黒沢清みたいでもある。それからこの映画では風景がとてもすばらしい。この映画は高校生の時に一度観て以来二十何年振りに観たのだが、内容はほとんど忘れてしまっていたが、風景のすごさだけはずっと心に残っていた。夏の光と生い茂る雑草。
『日本春歌考』は、何度観ても、どうしても好きにはなれないのだが、面白い場面やすごい場面がたくさんある。大島渚は、すごいシーンやすごいカットを「どうだすごいだろう」という感じではなく、当たり前のようにあっさりと見せる。「別にこんなこと、それほど大したことじゃないよ、それより内容だよ」みたいな感じ。でも、結果として「内容」は古びるけど、カットのすごさは古びない。
この映画では、政治的闘争=歌合戦で、それは『旅芸人の記録』と同じなのだが、アンゲロプロスと違うのは、ここでは大文字の歴史的なものというより、世代間、階級間、国家間、男女間というそれぞれ異なる立場の間に走る、より微細な断層が「歌」の違いとして表象される。時に、非常に粗雑な象徴的表現に押し流されてしまう場面もあるのだが(ラストの場面とか、がっかりする、そして、分かり易いので、そういう場面ばかりがピックアップされがちだが)、大島渚の映画の多くの場面では、決して力が一元化することなく(何か一つのことが声高に主張されることなく)、複数の力のせめぎ合いや引っ張り合いやすれ違いによって画面が構成され、場面が展開され、映画が動いてゆく。大島渚の面白さは、複数の力のせめぎ合いを、人物の配置や動きや構図、モンタージュなどの映画的な要素に(非常に繊細に)変換する能力にあると思う。
(女の子たちの描き方があまりに類型的すぎるんじゃないか思っていると、途中で、そのなかから吉田日出子が一人、ぱっと突出して、場を持って行ってしまうような展開とか、おおっ、と思う。)
でも、『儀式』とかになっちゃうと、ぼくが感じる「大島渚の鬱陶しさ」が凝縮されてしまっているようで、なんでこうなってしまうのか、と思う。大島渚的な繊細さと運動性(『無理心中 日本の夏』で、唐突なロングショットのなかを田村正和が走り抜けジャンプするカットなど、本当にびっくりする)が見られず、いろいろな意味で硬直化してしまっている。佐藤慶への照明の当て方とか、これはギャグなのか?、と思ってしまう。ここでも歌合戦があるのだが、『日本春歌考』のそれに比べると、きわめて粗雑であるように感じられる。
大島渚は、実は映画よりも演劇の方がずっと好きな人なのではないかと、その作品を観ていると感じることがある(大勢の人物を閉じられた空間のなかで動かすのが好きみたいだし、上手い)のだが、実は映画がそんなに好きではない(演劇の方が好き)かもしれない大島渚が、たまたま映画と出会ってしまった(大島渚はもともと映画をやりたかったわけではなくて、松竹の撮影所しか就職先がなかったのだと、昔、自伝で読んだ記憶がある)ことで起きた科学反応みたいなものが面白いのではないかとも感じる(閉じられた空間がふいに開けて、外に繋がってゆく時の運動性がすばらしい)。