大島渚を何本もつづけて観て思うのは、言説、物語、状況が、あまりに早く古びてしまうという事実と、しかし、状況は常に変化するとしても、各個人がそれぞれの状況に対しどのような立ち位置をとるか、そのなかでどのようにふるまうのか、ということのパターンは、驚くほど(というか、うんざりするほど)かわらないということだ。現在とはまったく異なる状況のなかで、宇宙人のような言葉を交わし合う人たちをみていても、「あー、こういう奴いる」みたいなあるあるネタが簡単に成立してしまう(あるいは、容易に感情移入出来てしまう)ほどに。
すぐに干からびる言説、状況と、うんざりするほどかわらないあるあるネタ的なふるまい(「盛者必衰の理」みたいな…)。つまり、それらは結局、どちらも何も生み出してはいない。しかし大島渚の映画の面白さは、そのどちらでもないところにある。何かが創造される余地があるとしたら、その中間においてであろう。常に新しいものへと取り換えられる何かと、その果ての無い交換のなかで存続してしまううんざりするものの間を走り抜ける何か。その、走り抜ける何かだけが創造されたものだ。
同時代的な物語や言説のなかで動く、普遍的な変わり映えの無さと共にある人物たち。そのような映画において新たに生み出されるものとは、ある空間のなかに、人物たちをどのように配置し、どのように動かし、それをどの位置のカメラから捉え、そのようにして捉えられた映像をどのようにモンタージュするのか、ということだ。つまり、状況(言説、物語、世界像)でも立ち位置(政治)でもなく、その条件下での新たな運動のあり様こそが何かを創造する。あるいは、ただ、新しい動き方だけが、世界のなかの新たな何かとして創造される。新たな動き方とは、基底的な時間、空間の範囲内でなされるのではなく、その動き方こそが、時空を解体し、別の時空として編み直す。ある発言や行動をする人物を捉える、カメラの位置、フレーム、モンタージュの変化だけが、その人物を新しい別の人へと変質させる。それはただ「動き」としてだけ世界に登記され(つまり、その「動き方」が新たな基底的時空を固定化し、形作ってしまうと、その力は消える)、それこそが作品の力として、遠い場所から「ここ」まで届けられる。我々が作品から受け取るものとは、新たな「動き方」が生まれる瞬間の息遣いであり、その感触、その歓喜であり、うんざりするしかない出口のない状況であっても、別のやり方で新たな動き方を創造する余地はいくらでもあるのだというメッセージであろう。
だが、新たな動きは、それ自体としては存続しない。存続=固定化したら死んでしまうから。さらに、「新たな動き方」によって、「常に取り換えられるもの(の機能)」や「そのなかで存続してしまうもの(の機能)」が破壊されることもないだろう。それらは常に作動しつづけ、ヘゲモニーをとりつづけ、勝利しつづけるだろう。ただ、作品に定着された「新たな動きは常にあり得るよ」というメッセージが届けられ、連鎖し、そのメッセージによって、その都度の創造として「新たな動き方(新たな作品)」が反復されることによってだけ、その存続が辛うじて可能となる。そうである以上、それは同時代性などとは何の関係もない、マイナーなものでしかありえないだろう。しかし、その存続のなかでしか、人は生きることが出来ないと、ぼくは思う。
大島渚の映画で、その内容は古びていても、そのカット、その場面のすごさは(少なくとも今のところは)古びていない、という風に見えるのは、そういうことだと思う。