2021-03-03

●『スパイの妻』(黒沢清)をU-NEXTで観た。一度目はかなり興奮しながら観たし、もう一度繰り返して観て、なるほど、こういうつくりになっているのかといろいろ納得するものがあった。

だけど、改めて何か書こうと思うと、書きたいことが出てこない。黒沢清の映画の音のつくりはいつも新鮮だ。蒼井優は、クローズアップで決め顔の演技をしてもあまりクサくならない希有な存在だ。対して高橋一生の演技はややクサくて、一度引っかかると気になってしまう。戦中の日本の空気の変化(悪化)を、東出昌大という一人の悪役の態度の変化に代表させるというやり方は大島渚を連想させる(東出昌大の背の高さをほとんど奇形的に強調している)。高橋一生の会社の空間が面白く、特に、オフィスと倉庫を結ぶ中間地帯の設定が面白い。数少ない例外(水死体が浮いている場面と高橋一生が去って行く場面)を除いて、海を見せることをラストまで抑制しているというのは分かるのだが、「港」的な空間の広がりをほとんど見せていないのは何故なのだろうか(高橋一生満州から帰ってくる場面も、横が狭くて縦に長いゲートの空間が示されるだけで、やや息苦しい感じ)。いつもの黒沢清のスタッフではなく、NHKのスタッフとつくっているせいか、フレーミングや光の感じに常に違和感がつきまとうが、それはそれで新鮮とも言える。ただ、そうはいっても時々フレームが窮屈な感じにはなる。というような、まとまらない、細かいことはぽつぽつと頭に浮かぶのだが。

●一つ感じたのは、古い時代の物語を「映画」が語ろうとする時に、リアリティの軸をどう置くのかという問題の難しさだ。蒼井優高橋一生も、昔の日本映画に出てくる俳優のような言葉遣いや立ち振る舞いをする。でもここで、昔の人を演じているのか、昔風の演技を模倣しているのか、よく分からなくなる。また、正確な時代考証によって過去の姿が再現されたとしても、演じているのは現代の人だし、当たっているのは現代の光で、撮影しているのは現代の技術による撮影機材だ。考証(再現性)が確かであればあるほど、演技が高度であればあるほど、この矛盾がはっきりと感じられるようになって、自分が今見ているものが何なのか分からなくなり、混乱が生じる。

おそらく演劇であれば、このような混乱は生じにくいと思われる。過去は再現されているというより、見立てられ、演じられている。あるいは映画であっても、もっと簡易的な再現度しか持たない、隙の多い空間が作られていれば、あるいは抽象度の高い空間であれば、観客は「過去」という虚構の時空をもっと容易に受け入れられるだろう(あるいは、虚構=役と現実=俳優との分離を、もっとすんなり受け入れられるだろう)。しかし、綿密に再現された過去のリアルな高画質映像は、過去という虚構の時空の出現というより、「現在において再現された過去」のリアルな出現のように感じられるだろう。演じられた「過去の人物」を見ているというより、過去の人物を模倣している「現在の俳優」を見ているという感じが強くなる。

常にそう見えてしまうというのではなく、時々、そのように見えてしまうことを抑制(制御)することができないということだ。虚構の次元にのみ没入することはできず、ある時には演じられた過去の人物(虚構としての過去の風景や時空)を見るし、ある時は、演じている現在の俳優(過去を再現した現在の光景)を見ている。ネッカーキューブのようにくるくる反転するこの二重性を意識することなく観ることは難しい。映された現実と、演じられた虚構との二重性は、そもそもフィクションを語るあらゆる実写映画に存在するのだが、古い時代の物語が高画質で語られる時、もともとあるこの矛盾(乖離)がさらに一層強く感じられることになる。

ならば、これは欠点ではなく積極的なものだとも考えられる。実写映画に内在する矛盾(二重性)を目立たなくするのではなく、むしろはっきりと見えるようにするためにこそ、積極的に「古い時代の物語」が語られていると考えることができる。