●NHK-BSで、中原俊の『櫻の園』のリメイク版をやっていたのを観た。90年につくった映画を何故08年になってリメイクしたのだろうかと思っていたのだけど、製作にオスカープロモーションが加わっているので、おそらく、オスカープロモーションの側で、若い女の子をたくさん出せる企画としてこれを取り上げたということなのだろう。そういう「枠組み」が先にあってのセルフカヴァーとして考えると、かなり面白いことが出来ているのではないかと思った。
かつて、創立記念日の度に上演されていて、しかしある事件以降は上演が途切れてしまっている「櫻の園」を再び上演しようとすること(虚構内)と、かつてつくれた映画『櫻の園』のセルフカヴァーともいえる映画を再びつくること(虚構外)。虚構内の出来事も虚構外の出来事も、どちらも反復であり、それは、「今回」が、はじめから既に「前回」との関係のなかにあるということになる(つまり、前回はああやったから、今回はこうやる、という風になる)。この映画では、様々な意味で「二度目」であることが強く意識されている。
しかし、上演を行おうとする彼女たち(登場人物としても俳優としても)にとっては、それをするのは最初であり、おそらく一度きりである。これは、学校という場所が、毎年繰り返し新入生と卒業生とをつくりだしているのと同時に、そこに通う一人一人にとっては、それが一度きりの出来事であることとも似ている。学校から見れば毎年卒業生が出るが(だから、十年前の卒業生と今年の卒業生とを重ねたり、比較したりできる)、生徒から見れば卒業するのは一度きりであろう。でもだからこそ、生徒の側もまた、自分の一度きりの卒業を、過去の繰り返された卒業と重ねたり比較したりできるということだ。おそらくリメイク版『櫻の園』がとらえようとしているのはそのような時間の構造のようなもので、その構造は、学校を舞台とした青春物という内容とも合っていると言える。
でも、それだけでなく、一方で、青春物としての定番をかなり繊細に成立させつつ、もう一方で、ちょっとリヴェットみたいな感じで、「演劇をつくる人たち(その過程)についての映画」が、「演劇=映画」という、リアルでもアンリアルでない奇妙な空間に転じてしまう、時空が相転移してしまうような感じもあって、その移行が面白かった。女子高生たちの人間模様の場面と、彼女たちが演劇の練習をしている場面とが、ちょうど『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の、セリーヌとジュリーのパートと、お屋敷の中で繰り返される呪いのパートとに対応しているとも言えるのではないか(彼女たちは校舎から隔離された古い洋館である「旧校舎」で練習をする。)。
●この映画では、生徒の側は良いとして、大人の側の演出があまり上手くいっていないように思えた。富士純子、大杉漣、京野ことみ、が出てくると、ちょっと緩んでしまう気がする(あと、冒頭のバイオリンの場面は最悪だと思った)。ただ、菊川怜が思いの外よかった。この人はもっと俳優の仕事をしてくれないかなあと思った。