2024/06/02

⚫︎『白昼鬼語』(高橋洋、佐飛実弥、川合啓太、岡本光樹、丘澤絢音)について、昨日のちょっと補足。

この作品には、フィクション(演劇)の層と現実(映画)の層の二層がある。そして、演劇の層にある場面は、基本的に観客(観客役の人々)の前で演じられる。しかし、演劇の層にありながら、B(女・あやこ)あるいはEが、DやC(そのうら・おおむた)を絞殺する場面を「覗き見する」中空の場には観客がいない。明らかに観客(観客役の人々)の目が届かない場所で、この場面は演じられている。

この場所で、BやEによる殺人を覗き見するAあるいはCは、B・Eが行う殺人場面の観客である。観客(観客役の人々)は、現実=映画の中で観客を演じているが、ここでのAやCは、演劇の中で観客の役を演じていると言える。フィクション=演劇のレベルで解釈すれば、BやEが人を殺すところを、AやCが覗き見している。現実=映画のレベルで解釈すれば、AやCは、殺人の現場を覗き見する役を演じていて、BやEは、人を殺す役を演じている。さらに、ベタな現実(現実=現実)のレベルで見れば、AやCは、殺人の現場を覗き見する役を演じる俳優の役を演じていて、BやEは、人を殺す役を演じる俳優の役を演じている。そしてこの場面においては、演劇を観る観客の役を演じている人々は消える。

フィクション=演劇のレベルで観客となる者(A・C)が現れる場面では、現実=映画のレベルで観客である人々は消える。この場に現実=映画レベルの「観客」がいないことで、AやCは、観客を演じているのか、観客そのものであるのか、よくわからなくなる。つまりこの場では、フィクションの層と現実の層との階層関係があやふやになって混じり合う。そのような特権的な場として、この中空は造形されている(このような場でこそ、「反転」が起こる)。

この場所で、最初にフィクションとしての「Bによる殺人」を目撃したA(わたし)とC(そのうら)は、最後には現実として殺す者(A=かな)と殺される者(C=おおむた)になる。そして、最初にフィクションとして人を殺していたBが、最後には現実としての「AによるCの殺害」を目撃する者になる(ここでBは「あやこ」というよりも、悪魔的な誰でもない誰か、であろう)。虚構の目撃者が現実の実行者となり、虚構の実行者が現実の目撃者になるという反転が、この映画で起こっている主な出来事だ。

(C(そのうら・おおむた)はまず、虚構内で目撃者となり、ついで、虚構内で「殺される=目撃される者(そのうら)」への位置の交換を介して、最後には現実として「殺される=目撃される者(おおむた)」へと移行する。)

要約すれば、Bが殺人を演じることによって、Aを現実の殺人へと導き、Cを現実の死へと至らせ、死を虚構の次元から現実の次元へと引き摺り出す。とはいえ、現実の死と言っても、その現実とは現実=映画の層の出来事であり、現実=現実の層、ベタな現実から見れば虚構でしかない。まずは、虚構でしかない死に、あたかも虚構から現実の死が引き摺り出されたかのような生々しさを与えるために、この映画の複雑な階層構造が作られる。さらに、現実=映画のレベルの出来事である死に、さらにそこからより生々しい別の層へと引き摺り出されるかのような感触を与えるために、現実=映画内で殺人場面がビデオ撮影され、スナッフビデオのような表情が与えられる。