2024/07/07

⚫︎リヴェットの『ノロワ』をDVDで。おお、やってんなあ(リヴェット全開 ! )、という感想。リヴェットの映画の中でもかなり難しい(攻めている)作品だと思う。難しいというのは、難解な思想が語られているとかではなく、「どうやって観たらいいのか分からなくて困惑する」という類の難しさ。

まず、この映画は「フィクションを立ち上げる」というよりは、「バレエのような舞踏作品を構築する」という感じで作られていると考えられる(衣装・背景・カメラの動き・人物の仕草などによって組み立てられる抽象絵画のような映画、とも言えると思う)。ただし、この作品には、バレエダンサーの超絶技巧のようなものはなく、撮影と演出はそれなりの完成度があるとはいえ、俳優の演技はいわば「素人芝居」の延長のようなものだと言える。つまりこれを「超絶的な身体能力」ではなく、「素人芝居」という素材によって構築されたバレエ作品のようなもの、として観るとリヴェットのやろうとしていることがよく感じられるのではないかと思う。

もう一つ重要なのは、この映画は「フィクションを立ち上げる」というよりは「演じている人」を撮影する、という態度で作られていると考えられるということ。「演じる」ことそのものを撮影しようとしている、というか。この映画全体が『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の、屋敷の中で繰り返し演じられていた寸劇のようなものなのだ。「セリーヌ…」では、分かりやすく「虚構内虚構」としてコーテーション(“”)がついていたが、この映画ではそれが明示されていなくて、映画全体に見えないコーテーションがつけられている。BGMを演奏している人が常にフィクションの場面内にいる(演じられている同じ場面・時空内で音楽が演奏されている)、ということが、コーテーションを示す一つの指標にはなっている。

(『パリはわれらのもの』『狂気の愛』『アウト・ワン』『地に堕ちた愛』『彼女たちの舞台』では、「演劇」の主題が作中に含まれているのでこの感じがある意味分かりやすいし、『美しき諍い女』では、演劇の主題が「画家とモデル」という主題に変奏されている。しかし、この映画や『嵐が丘』『ジャンヌ・ダルク』などのいわゆるコスチュームプレイでは、コーテーションが明示されないので、戸惑ってしまう。そして、95年の『パリでかくれんぼ』以降の作品は、このような「不在のコーテーション」を特に意識しなくても普通に観られるような感じになる。とはいえ「不在のコーテーション」がなくなったわけではない。)

だから、物語としての謎の提示とその解決とか、緩急とか、クライマックスの盛り上がりなどはなく(物語にのめり込んだり、人物に感情移入したりできない)、「セリーヌ…」の屋敷内寸劇がそうであったように、決まりきった台本がただ機械的に演じられているかのような感触で映画が進んでいく。俳優たちは皆、カッコ付きで「演じて」いる。カッコ付きで「演じて」いるからこそ、逆説的に「役」よりも「演じている俳優そのものの身体」が強く出ているとも言える。「実在する俳優」が演じている、という感覚。虚構と現実のあわいにある「演じる身体」。この感覚を面白がれるかどうかが、リヴェットを面白がれるかどうかに大きく関わってくる。

それと、登場人物が多くて、しかも衣装や髪型がコロコロ変わるので、誰が誰だかなかなか分からないというのも、この映画の難しさの一つだろう。正直いうと、かなり最後の方になるまで、登場人物の同一性を特定できなかった。