2024/07/08

⚫︎実は先週は、都知事選のことがずっと気になっていて(神奈川在住で投票できないのに)、なかなか集中して何かをするのが難しかった。

思ったのは、例えば小泉今日子のような、有名人で、かつ人気者の言葉であっても、「政治的に色がついている」と判断されている人の「政治的発言」は、その「色がついた範囲の外」には届かないということだ。

普通の人は、権力側を「普通」だと感じ、それに抗する側を「色がついている」と判断する。今回の石丸伸二の躍進は「権力に抗する」が「色はついていない」という風に多くの人に「思わせる」ことに成功したからではないか。それはウソなのだが。

ただ、このようなことはたんに広告的な戦略の話に過ぎない。でも、結局はそれで決まってしまう。もっとフラットに、小池はこうで、石丸はこうで、蓮舫はこうで、田母神はこうで、その中で最もマシなのは何か、という話にならないものか。まあ、普通はならない。

そもそも「人」に投票するということが間違っているのではないか、と思う。人に投票する限り、どこまで行ってもあいつは(あの女は)気に食わないみたいレベルの話から抜けられない(技術は進歩するが「人間」は進歩しない)。というか、そいういレベルの話こそが最も「効いて」しまうから、クソみたいな奴らがそれを利用する地獄が発生する。

VECTIONでは今、シモーヌ・ヴェイユの「政党全廃に関する覚書」というテキストを検討している。ヴェイユは「政党」こそが民主主義を毀損すると主張し、政党の存在を禁止し、議員は(人々もまた)常に個としてあり、議題ごとに集合離散するべきだと主張する。我々もそれにはほぼ同意だし、議題ごとの集合離散は現在では技術的に容易だろう。ただ大きな問題は、政党を全廃するためには、人々が政党活動をしないように監視する秘密警察が必要になってしまうということだ(ヴェイユはその点について何も考えていない…)。

VECTIONの主張の一つに「人は熟議に向いていない」ということがある。民主主義的なプロセスとして「熟議」は常に良いものとされるが、しかし、そもそも人間にとって熟議はまったく得意なことではないし、今後も得意になることはないと思われる(「あいつが気に食わない」というレベルから脱することができるとは思えない)。

そして「議論」というものが本当に良いものなのかという疑問がある。。議論をすると、言葉が巧みな人、策を弄する人、声がデカい(圧が強い人)、見栄えがいい人に引っ張られる。喧嘩をすれば体が強い人が勝ってしまうように、議論をすれば頭の良い人が勝ってしまう。それは暴力とどう違うのか。そして、そのような人に言いくるめられて、言語化できないモヤモヤを抱えた人の「モヤモヤ」が抑圧される。実はその「言語化出来ないモヤモヤ」こそが重要なのに。

(言語化できないモヤモヤを引き出すための会話術が「精神分析」なのだが。)

もちろん、熟議や議論をすべて否定するのではない。それは必要だし重要だ。しかしそれと同じくらい集合知(統計)が重要であると考える。言語化できない「モヤモヤ」は統計によってこそ可視化される。今では、地球の気候変動は誰にでも感じられるレベルになってしまったが、30年前には体感不可能であり、「地球温暖化」という概念は観測データの統計的な処理によって初めて明らかにされた。気象データの観測と同レベルであるような細やかな投票とその解析が、言語化できない「モヤモヤ」を可視化する、と期待できる。

何年かに一度、政治家に投票するのではなく、さまざまな議題や問題に対して、日々、何度でも投票し、投票し直し、その結果と、そして結果の時間的推移が、常に可視化されているような状態になることが望ましいのではないかと考える。その投票は、何かを決定するのではなく、問題を(隠蔽しようもなく)可視化するための投票となる。

(一部の人は強く嫌うかもしれないが、投票へのモチベーションを上げるために、投票に「賭け」的な要素を多少含ませることも考えている。)

(既に、我々のネット上での振る舞いのデータはすべてGoogleに抜かれている。この「データがとられていることを予め知った上での振る舞い」は、一種の投票行為に等しい。問題なのは、その膨大なデータをGoogleのみが独占して利用できるというところだ。国民すべての投票データが、国民すべてに開かれ、かつ、権力者がそれを無視できない、という状態が望ましい。)

(そもそも、選挙の情勢調査の結果が、政党の幹部やメディアの内部に独占されていること自体がおかしいことではないかと思う。調査しているのだったら、それは選挙期間中のすべての有権者に対して開かれているべきではないか。情報と予算のコントロールこそが権力の源泉であり、その特権性を失うことは権力を持つ人が最も嫌うことだろうが、そこを崩す必要がある。)