⚫︎「新潮」10月号(6日発売)で、山下澄人さんが『セザンヌの犬』について書いてくれています。楽しみでもあり、怖くもあり。下の画像は「新潮」のインスタグラムからスクショしました。
(目次で隣に並んでいるのが青木淳吾かと思ったら違った。)
(鴻池留衣の230枚の小説も載っている。)
⚫︎「プロ」という存在の特権化はやめた方がいいと思う。プロとはつまり、その仕事でお金をもらっている、その仕事で生計を立てている、ということでしかない。お金になる仕事をしているということだ。
プロであるためには、それなりの競争を勝ち抜く必要があり、仕事にもそれなりのクオリティが要求されるだろう。そのような意味で、プロの仕事は素晴らしい。そこは別に否定しない(「商業主義だからダメ」みたいなことが言いたいのではない)。
ただ、プロの仕事の素晴らしさは、数ある素晴らしさの中の一つでしかない。プロの仕事の素晴らしさだけが唯一の素晴らしさではないし、プロたり得るかどうかという基準だけが、素晴らしさを測る唯一の(あるいは、最も尊重されるべき)基準というわけではない。
(あるいは、「プロ」という形態はさまざまにあり得る形態の一つということでしかない。)
さまざまな形の素晴らしさがあり、「プロとしての仕事の素晴らしさ」は、そのような多くの素晴らしさの中の一つの素晴らしさにしかすぎない。プロだからってあんまり偉そうにしてんじゃねーぞ、と、いつも思う。
(お金にならない素晴らしさ「こそ」が素晴らしい、と言いたいわけでもない。)