⚫︎光が秋めいてきた。
⚫︎最も好きな小説の一つ、『ペドロ・パラモ』がNetflixで映像化される。
Pedro Páramo | Official Teaser | Netflix
https://www.youtube.com/watch?v=bbsz-ip1GAI
(トレイラーの映像を観ても、すべてのカットがどの場面なのかわかる。そして、作り方を間違えているという嫌な予感がする。ハリウッド版「攻殻」のトレイラーを見た時みたいな感覚。)
『ペドロ・パラモ』は、小説というメディウム(形式)にかんする強い自己意識を持ち、(作品に対して「実験的」というような言葉を使いたくないのだが、他に適当な言い方が思いつかないので妥協して使ってしまうが)形式についての高い実験性を持つ。そのような作品を、それとはまったく別のメディウム、たとえば「映画」というメディウムに移植するとしたら、今度はその移し替える先のメディウムにかんして、強い自己意識と実験性を持つ作品として根本から組み立て直されなければダメだと思う。トレイラーを見ているとそういう感じには見えない。。
『ペドロ・パラモ』から物語要素を取り出して、常識的な時空構造に組み立て直していたりしたら目も当てられない。たんに時系列をシャッフルすればいいということでもない。
(監督のロドリゴ・プリエトは、『沈黙―サイレンス』や『アイリッシュマン』、『バービー』などの撮影監督をしている人なのか。初期はエミネムの映画とかも。撮影監督としては結構すごいキャリアだ。キャリアのある撮影監督の初監督作ということか。)
⚫︎『ペドロ・パラモ』は、1967年にすでに一度映画化されている。
Pedro Paramo (1967) Full Movie
https://www.youtube.com/watch?v=-9j45h78JeI
⚫︎「実験的」という表現を使いたくない理由。(1)「実験的」という語には、「正統的ではない」「本格的ではない」「定説以前の仮説のステイタスしかない」というような、傍系的なニュアンスが含まれてしまうから。(2)本来、あらゆる作品が実験的であるはずなのにもかかわらず、ある種の前衛性を有する作品にだけ「実験的」と名付けて、「普通の作品」から切り分けようとする意図がみえてしまうから。どちらにしても、「厄介者」を、認めたふりをしつつ、特別席において「普通の私たち」には影響が及ばないようにしようとする感じがある。