2024-09-12

⚫︎『新宿野戦病院』、最終話。みんなが納得して、気持ちよく終われる、いい最終回だと思った。今まで広げてきた風呂敷を、手際よく、とても引き締まった良い形に手早くキュキュッと畳み込む。このドラマは、かなり尖って、攻めた感じで始まったが、最後は、とても綺麗に、まるく上手く畳まれた感じ。最後まで攻め攻めで行ったらどうだっただろうか、とも思ってしまうが、これはこれでとても良いと思った。

前回、いきなりパンデミックの話になって驚いたが、考えてみれば、医療ドラマのクライマックスにパンデミックを持ってくることは、そこまで驚くようなことでもない。ただ、コロナ直後と言える現在の時点で、コロナ禍の様子をかなり生々しく拾っているところに、なんというか「鮮魚」的な活きの良さが感じられる。かなりデリケートなところにまで、踏み込んだ批評的おちょくりを入れるところに、もはや地上波の報道やバラエティでは失われてしまった「良識」を、ドラマ制作班はまだ維持し続けているのだという矜持が示されていることを感じた。

(ただ、「政治家に直談判する」シーンは、このような場面の組み立てこそが「権威主義」なのではないかと感じ、ここはダサいなあと思った。彼はたんなる一人の政治家に過ぎないのに、政府や世間を代表するものに対して物申す、みたいになってしまっている。このような姿勢こそが権威主義的だと思う。)

小池栄子の「無免許問題」をスルーしたままで終わるのは無理があるし、しかし、この問題に決着をつけるとしたら悲劇的な終わり方になるしかない。この二律背反に対して、いったん、悲劇的な終わりを用意して、しかし、その数年後、病院が今まで通り存続していることを示して、幸福な感じで幕を閉じる。正直、これは「すごくよくある手」で、「驚くべき」ところは何もない。ただし、ここはあえて凡庸な手法を使ってでも、幸福な感じで気持ちよく終わらせるという姿勢に対して異論はない。

橋本愛の「弱さ」を、最後にちゃんと示しているところもとてもいいと思った。昼はボランティアで夜はSM女王という二面性は、記号的、図式的な二面性に過ぎないし、ヤケになって自転車を蹴っ飛ばしているだけでは、優等生のささやかな反抗の域をでない。芯が強く、信念を持って行動しているような人物でも、心が弱ると魔がさして「密告」をしてしまったりする。ここまで踏み込んで、ようやく橋本愛のキャラクターが生きてくるのではないか。

(ある意味、橋本愛小池栄子を殺して、正のヒロインの座を得る展開、とも言える。)

正のヒロインとしての小池栄子と、負のヒロインとしての橋本愛とが、位置を入れ替えて、橋本愛小池栄子が去った「病院」で位置を得る。橋本愛は、カウンセラーとして歌舞伎町に戻ってくる(部屋の扉には「Not Alone」のステッカーが一応はある)わけだが、それだけでなく、「Not Alone」が復活している姿を、2年後の歌舞伎町の中にチラッと一瞬でもいいから入れて欲しかったったな、と思った。ここはけっこう残念。

看護師の若い男性に最後まで活躍の場がなかったことも残念。ギャグの一つでもいいから、彼のために場を与えて欲しかった。

⚫︎みんなが気持ちよく観終わるように作られた最終回の、最後の最後で、桑田佳祐の「おっぱいでかい」という余計なひと言をあえて入れてくるのすごいなと思った。きれいに整えないで、最後にちゃんと「異物(遺物)」をぶっ込んでくる。このドラマがサザンオールスターズの曲をエンディングとしていることの「伏線」がまさにここで回収される。

(エンディング曲の途中で桑田は、「ヨーコ先生最高」と言い、その後に「おっぱいでかい」と言う。)

桑田佳祐はもう、外見的には萎びたおじいちゃんに見えなくもない感じなのに、楽曲では、猥雑な煩悩において「現役感」をちゃんと出してくる。おそらく、かなり無理して現役感をキープしているのだろう。しかしこの現役感は、あくまで「昭和」の現役感で、その、無理してキープされた昭和の現役感が、彼に「おっぱいでかい」と言わせる。それは桑田による、決して「現代」には迎合しない、異物=遺物として「昭和の人(昭和の残念なおっさん)」であり続けるという、意志を持った抵抗の印だろう。

別に、あの頃は良かったと言っているのでもないし、あの頃に戻すべきだと言っているのではさらにない。ただ、自分が「昭和の人間である」ということ、その「歴史的で偶有的な事実」を、簡単には洗い流さない(歴史修正しない)。

昭和は素晴らしかったと声高に主張するのでもなく、そもそも、昭和が素晴らしいと思っているわけでもないだろう。だがそれでも、言わなくていいところで「おっぱいでかい」という余計なひと言を言ってしまうことを、「抑制することはしない」ということを意志を持ってする、とてもとても弱い抵抗。たとえ「残念な人」だとしても「それがオレ」なのだ、と。それによって場を白けさせたとしても、若者から白い目で見られたとしても、人を失望させるとしても、「オレがオレであること」の最後の一線はキープするのだ、と。

(「オレがオレであることの印」がひどい加害だったりしたら肯定できないが、この「余計なひと言」を生む「あえて残念な人であろうとする意志」は、マッチョな押し出しでもなく、開き直りでもなく、ささやかな抵抗であるようにぼくには思われる。バックラッシュ的な抵抗ではなく、時代の同調圧力=権力に対する抵抗にみえる。)

新しい人として自分をアップデートさせるのはそんなに難しいことではないかもしれない。しかしそれでも、オレはオレとして「古い人」として生きる。だがそれを強く主張するのではなく、「言わなくてもいい余計なひと言をあえて抑制しない」という程度のとてもとても弱い形で示す。そのような「意地の張り方」には、なんの意味もないし、そもそも正しくない。合理的に正当化できるようなことではない。だが「このわたしの魂」とは、そのような、繊維に絡むホコリのような「意味のないところ」にこそ宿る。

そして、ここにふっと現れた「魂=余計なひと言」を、削除しないで使っているドラマ制作者をも支持したい。そこには、異物を排除しないというコンセプトが貫かれている。