2024/07/31

⚫︎『新宿野戦病院』、五話。うーん、今回はやや弱いところを技術でなんとか乗り切ったという感じか。命の(不)平等について語る時、ホームレスの命と政治家の命とを対比的に取り上げるのは、あまりに安易でありきたりな図式ではないか。しかし、それを技術によって安易にならないギリギリのところまで持っていったということか。とはいえ、元々の構図が安易であることは変わらない。そして、ラストの小池栄子の演説も、うーん、これをやっちゃうのか、と思ったが、小池栄子が、ホームレスの死と引き換えに(排他的二者択一によって)生きることのできた人物について何も知らなかった(偉い政治家に向けて演説を打ったのではなく、ただ「シゲさんの命と引き換えのようにして生き残った人物」に、自分の想いを伝えたかった)ということによって、ギリギリで安直な感じは逃れている。だが、それによって、その演説は必要なのか(それ以外のドラマ部分でその主張は十分に伝わっているのではないか)、という疑問は消えない。

(命が助かる政治家が、「厚生大臣」ではなく「防衛副大臣」というのが渋いが。)

安易であることをギリギリで逃れているのは、ここではホームレス対政治家という対立構図よりも、現実においては排他的二者択一をせざるを得ない場面が生じるというハードな事実の方が強調されているからだろう。もちろん、排他的二者択一の状況が生じた時、社会的な地位によってではなく、エクモを確保した順番が優先されるのがフェアな選択であり(だからシゲさんが優先されるのがフェアであり)、だからここでは明らかな不正が行われている。そうであるにも関わらず、不正に対する告発的な調子がまったくなく、「現実の厳しさを噛み締める」みたいな調子になっていることは看過できないのではないか。最後にわざわざ小池栄子に演説させるのならば、日本の医療制度への賞賛ではなく「お前は不正によって生き延びたのだ(今後それを自覚して生きろ)」という糾弾でなければならないのではないか。テレビドラマでそこまでやるのは難しいとしても、握手させて、なんとなくいい話風にまとめるのまったくダメなことではないかと思う。

(追記。不正をしたのは政治家本人ではなく、周囲のスタッフや医療体制なのだから本人を責めても仕方ないのかもしれないが、しかし、その命が「不正によって救われた(犠牲になった人がいた)」ものであるという事実は本人も知るべきではないか。)

そう考えると、わざわざ安易なくらいわかりやすい対立構図を採用しておいて、その根本にある「対立」を技術によってなんとなくふわっと見えないようにすることで「安易な感じ」をなくすというやり方は、「安易に対立を煽る(安易で質の低いドラマを作る)」よりも、さらに、よりダメなことなのではないかと思えてきた。そう考えると、シゲさんが最後に「笑っていた」ことを「いい話」風にするのは最悪なのではないかと思えてくる。シゲさんの命が(不正によって)見捨てられた以上、次善の策として、笑って死んでいけたことそれ自体は良いことだが、それによって「選択の不正」が行われたことが消えるわけではない。「いい話」それ自体はいいものだとしても、それによって不正にヴェールをかけるのは最悪。クドカンはここで「技術」の最悪な使用をしたのではないか。

(日本の保険・医療制度が相対的に平等で優れたものであることと、その現場で明らかな「不正」が行われたこととは別のことで、前者によって後者を無かったことにはできない。)

⚫︎二人の「望まれない子ども」の対比。一人はクレバーに振る舞い、もう一人は愚かな振る舞いをする。

伊東蒼は、甘いこと、うまいことを言ってくる、「家族」に未練のある母親を、キッパリと拒絶する。それは彼女にとって「家族」がほんの一瞬での「いい場所」であったことがないからだ。彼女はとても聡明だが、それは誰からも保護されず、「聡明でなければとても生きていない」過酷な環境を強いられてきたからだろう。望まれない子どもである伊東は、徹底した望まれなさ=母との訣別によって、ようやく救われる。

対して、平岩紙はどこまでも愚かであり続ける。彼女が愚かであるのもまた、「愚かであることを強いられる」環境にあるからだ。平岩はその生育環境において、家=権威=家父長制を内面化させられ、それに固執するように教育されている。故に「望まれなさ」こそが救いであるという認識に至ることができない。家父長制的な女たち(平岩紙高畑淳子)は、よそ者(小池栄子)を「家」から排除しようとする。父(柄本明)もまた、家=家父長制の維持のために後継(小池栄子)を必要とする。父=男にとっては、妻の子も愛人の子も自分の子だが、母=妻の娘(平岩)にとって、異母姉妹はよそ者である。

(だがここで、父の意思に多少変化が見られている。父は、家=権威の継承よりも「新宿の赤ひげ」が存在し得る場の存続の方を強く望んでいるように見える。これは小池栄子によってもたらされた変化であろう。小池の登場によって病院の空気が変化したように、父もまた変化している。ただ、小池に対抗意識を持つ娘だけが、変化することなく頑なである。)

(家=権威に反抗する弟(生瀬勝久)もまた、「家=権威」の磁力の内側で家に「反抗」しているに過ぎない。だから彼もまたよそ者(小池)による継承を認めない。弟は、反抗の対象として「家=権威」を必要としている。)

父のみが、ややその磁力圏から外れかかっているが、家族たちが皆そこに固執する家=権威に対して、愛人(余貴美子)は、それを冷たく客観的に相対化する。お前らが後生大事に固執する「権威」など、引いてみれば、ちっぽけで薄汚い潰れかけの病院でしかない。娘(小池)はそもそもエリートであり、こんな「チンケな王国」の王の座などに関心がない、と。家=権威に固執するかぎり、病院などチンケな王国に過ぎないが(家に固執する家族たちにはそれがわからないのだが)、それが「新宿の赤ひげが存在する場」であるならば、話は別で、かけがえなく貴重な場であり、小池栄子はそのような場を継承しようとするかもしれない。