⚫︎YouTubeに『翔んだカップル』(相米慎二)がアップされているのを見つけ、ちょっとみてみたら、そのまま最後まで観てしまった。80年に最初に公開されたバージョンではなく、83年の長いディレクターズカット版の方で、VHSのソフトをそのままアップしてあるみたいだから、おそらく権利関係をクリアしているものではなく、そのうち削除されてしまうだろう。自分の意思で「観直してみよう」として観るのではなく、偶然に、事故のようにして観直してしまうという、そのような形で「再会」できたのは幸運だった。
https://www.youtube.com/watch?v=IaPt_i9c7Cw&t=174s
⚫︎心の準備もなく、不意打ちのようなして再会した『翔んだカップル』は素晴らしかった。一本目の監督作品なので、一般的な「青春ラブコメ」の定石を踏んでいるような場面もなくはないが、それでも、相米は最初から揺らぐことなく、忖度もなく、相米だったのだなあと、改めて思った。
ここで問題となっているのは、フォトジェニックな映像ではなく、空間であり、空間の中で生じる運動であるだろう。ここで運動とは、アクションであるよりも空間の展開であり、空間が、そこで可能な運動を導くと同時に、運動が空間を変容させる。そして、空間=運動は、複数の身体の間の距離の伸縮や、距離の質の変容をもたらす。
⚫︎今回観て改めて驚いた場面に、互いに好意を持ちながらも反発し合っていた鶴見辰吾と薬師丸ひろ子が、長い時間ののちにようやく自分の気持ちを素直に表し、そしてその後に結ばれるという場面があった。ここで、二人が心を許し合ったことを表現するために行なわれることが、まるでムツゴロウが動物に対して行うような仕草で、二人は、互いに顔と顔とをこすり付け合う。飼い主が、犬に対して思わずしてしまうようなことを、互いにし合う。これは、恋愛的な甘いイチャイチャとも、性的にエロティックな接触とも違っていて、動物同士がするようなスキンシップの感覚だ。この場面でこのような演出をすることに対して、単純に、よくもまあこんなこと考えつくよな、と感服する。
(おそらく、相米が考えたのではなく、鶴見と薬師丸の間から、このような仕草が出てくるのを、二人を追い詰めつつ、じっと待っていたのだろうが。)
鶴見辰吾と薬師丸ひろ子は互いに好意を持ちながら、子供っぽい意地によって反発し合ってていて、そうこうするうちに互いに別の人物と付き合う流れになってしまう。鶴見辰吾は同級生でとても勉強のできる石原真理子と、薬師丸ひろ子は大学生の真田広之と。そしてそれに対して互いにモヤモヤ、ムシャクシャしている。その感情が最も高いテンションにまでいたり、それが爆発する場面を経て、和解が訪れる。このような展開それ自体は紋切り型と言えるようなものだ。しかしその「紋切り型の展開」を成立させる一つ一つの場面に、まったく紋切り型ではない演技や演出や運動性の工夫(発明)があり、そしてその工夫の多くが驚くべきものだ。
⚫︎この映画の薬師丸ひろ子は、常識的な意味で演技が上手いとは言えないだろう。『新宿野戦病院』の出演者たちのような「芸達者」的な演技とは、その在り方が根本的に異なる。セリフはほぼ一本調子だが、棒読み的な一本調子ではなく、よく張った高いトーンの発声でなされる一本調子だ。セリフの細かい抑揚やニュアンスよりも「発声」が意識される感じだろうか。おそらくこのことが、身体の動きの柔軟さと自由さとを開く。セリフの持つ感情や心理よりも、発声という身体的な次元で高いテンションを維持することが意識される。場面や人物の感情に嵌め込まれるように演技がなされるのではなく、より柔軟なパフォーマンスが発現することそのものが重視され、パフォーマンスの質感によって場面が生成される。
⚫︎ラスト近くに置かれる、有名な「モグラ叩き」の場面にも、改めて大変に驚かされた。前に書いたことと矛盾するようだが、この場面は、空間的な展開があるわけでもなく、際立った運動があるわけでもない。空間も運動もなく、ただ、ある質感を持った「時間」が、それも流れる時間ではなく、一塊としてある「停滞する時間」が、ただドカンとそこに置かれているように思われた。
鶴見と薬師丸への嫉妬に苛まれた尾美としのりは、学校に、二人の同居を密告してしまう。そうすることで尾美は、嫉妬だけでなく激しい自己嫌悪に陥る。そのような泥沼の尾美を救うのが、モグラ叩きの場面だ(さらに、鶴見との関係を断念して留学を決めた石原も救う)。この場面で、鶴見、薬師丸、尾美、石原の四人は、愛や反発や嫉妬や憎悪といったこれまでの関係・感情の束をいったん宙吊りにするようにして、フラットに、ただ「同じ時間」の中に存在する。誰にとっても同等に分け与えられる悲しみによって浸された時間の中にあることで、四人は、ただ「共にある」ことが可能になる。
「誰にとっても同等に分け与えられる悲しみによって浸された時間」の中にあることで、あらゆる存在が平等に「ただ存在する」ようになる。このような瞬間が現れることが、相米の映画の特異的な性質の一つなのではないかと思った。
⚫︎なんと、『翔んだカップル』(相米慎二・1980年)で鶴見辰吾と薬師丸ひろ子が住んでいたあの家が、田園調布に今でもある、と。
映画「翔んだカップル」勇介と圭が暮らした家
https://www.youtube.com/watch?v=sce4LFUtXco
鶴見慎吾がウサギ飛びをしている、薬師丸ひろ子がラケットを振っている、あの場所が有名な「田園コロシアム」だったのか。知らなかった。
水音スケッチ 田園調布 翔んだカップル 鶴見辰吾 薬師丸ひろ子
https://www.youtube.com/watch?v=kJiTegWwztg