2024-09-15

⚫︎京橋の国立映画アーカイブで、『ファントム』(樋口尚文)。ぴあフィルムフェスティバル(PFF)での上映。1983年、PFF入選の8ミリ映画(今回はデジタル上映)。

まず、何から言えばいいのか。1980年から81年にかけて、中学生だったぼくは二つの方向から「映画」に出会った。一方は映画館で上映される映画で、相米慎二の『翔んだカップル』。もう一方は自主制作の8ミリ映画で、成蹊高校映画研究部の寺田裕之という人の作った『終(しゅう)』。前者は普通に映画館で観たはずだが、後者はテレビで観た。

『終』は、日本映像フェスティバルという自主映画のコンクールで大賞となり、それにより高校生の作った1時間足らずの8ミリ映画がテレビで放映された。で、ぼくはそれをたまたま観た。確か、日曜日の、午前のかなり早い時間だったと思う(ほとんど誰も観ないような時間)。予定外に早く目覚めてしまって、なんとなくつけたテレビで、やけに画像の粗いドラマをやっていて、それが『終』だった。すぐに引き込まれ、中学生だったぼくはこの映画に大きなショックを受け、ハマった(起きてすぐにテレビをつけたので、部屋のカーテンは閉めっぱなしで、薄暗い部屋でそのまま没入した)。それが高校生が作った映画だということは、番組内で説明されていたのかどうかは憶えていないが、監督の寺田裕之という名前と、主演の利重剛という名前はその時にクレジットタイトルで憶えた。

(それ以前、小学生の時に、大森一樹の『オレンジロード急行』や、大林宣彦の『ハウス』などは観ており、そういう、普通とはちょっと違う変な映画があることは知っていたし、そういうものに惹かれる子供だった。)

映画の最初のインパクトの一つが自主映画だったこともあり、そして、大森一樹大林宣彦も自主映画出身だということを知ったこともあって(ゴダールを観た、ということも大きいが)、高校生になると自分でも映画を作るようになるのだが、それだけでなく、おこづかいの許す限りでだか、東京まで2時間くらいかけて行って、当時はけっこうやっていた、自主制作の8ミリ映画の上映会を観たりもした。四谷にあったイメージフォーラムでは、いわゆる「実験映画」の有名作品の上映を定期的にやっていたりして、そういうものも観た。

自分でも映画を作るようになると、自然とPFFへの応募を考えるようになる。そして、ぼくが映画を作っていた高校生の時に、PFFでとても評判になったのが『ファントム』だった。8ミリ映画なのに130分を超えている、映画雑誌に批評も載っているらしい、大島渚をはじめたくさんの人が「すごい」と言っている。とにかくすごいらしい。にもかかわらず、ぼくが得られる情報は、2枚の粗い解像度のスチール写真(?)と、簡単な解説文のようなものだけだ。どんなにすごい映画なのか妄想が膨らみ、幻想が育っていくが、観る機会を得られない。そしてそのまま、40年の時間が過ぎた。で、今年のPFFで上映されることを知り、チケットを買った。

(これ以外でも、黒沢清の『しがらみ学園』をはじめ、気になっていたが当時は観られなかった8ミリ映画は何本もあるが、それらの多くは、その後、観る機会が得られた。しかしこの映画だけはずっと観ることが出来なかった)

⚫︎事前の情報としてあったのは、2枚のビジュアル(スチール写真 ? )で、一枚は、ノースリーブの女性と浴衣姿の女性とが、二人で背中合わせになってカメラの方を向いている、もう一枚は、三人の女性が、早稲田大学のキヤンパスらしい場所に立っている。そして、物語がジャンルを越境して展開していく、映画論的な映画であるらしいということ。このくらいだ。

で、観てみたら、思っていたのとあまりにも違っていて、ここまで違っていると幻想の幻滅も何もなく、いやいや、なんでこの映画であのスチール写真なのか、ほぼ詐欺ではないかと笑ってしまった。そうか、これなのか…、と。

良くも悪くも、ベッタベタの「男子校映画」で、受験に失敗して屈折している東大を目指す受験生と、東大の六回生だという、活動家崩れみたいなマッチョな暴力家庭教師(この暴力家庭教師を演じているのは小山登美夫だ)との、ホモソーシャル的な、暴力的で闘争的な濃厚接触の愛憎劇が、130分超の映画のうちの約三分の二くらい続く。理知的で形式的な映画論的な映画を予測していたので、うおーっ、こんなんなのか…、いや、いや、いや、いや、と、しばらくどう受け止めていいのかわからなかった。撮り方がすごく凝っている(さまざまな映画作家のスタイルを感じさせる)という意味では確かに映画論的な映画なのだが、内容があまりに男子校的パッションが濃くて、そっちの方が勝っている。

確かに、途中から展開がググッと折れ曲がる。暴力家庭教師は実はすでに死んでいた。いや、浪人生の方もそもそも幽霊だったのではないか、となって、浪人生と仲が良かった女友達が、浪人生の幻を追っていくという流れになり、(家庭教師と浪人生がいたのと同じ部屋なのだが)魔物のような女たちの館(「女たち」といっても二人だが)に迷い込んでしまう。ただ、この女性たちのパートは、130分の映画のうち、終盤の(体感だが)せいぜい20から30分くらいで、大半は男の世界だ。

(もう少し丁寧に言うと、男たちの世界に、チラッチラッと女性たちの存在が混じって、少しずつ女性たちの影が強くなって、最後に逆転する感じ。)

(三人の女性は、一人は普通のカールフレンド、一人は「離れる者」という怪異の存在、もう一人は浪人生の分身的な存在で、この役割の配置は面白いと思った。)

思っていたのとあまりにも違ったが、それなりに面白かったし、80年代前半当時の「感じ」がたっぷり感じられた。高校生の時の自分の「思い」に、40年の時を経てようやく応えることができた。この世に「思い残すこと」が一つ減った感じ。思い残すことはまだ他にたくさんあるが。

⚫︎それにしても今日はあまりに暑かった。

(暴力家庭教師が浪人生に向かって「食事はもやし炒めと肉豆腐だけだ」と言った時には、ちょうど前日に『翔んだカップル』を観たばかりなので笑ってしまった。こセリフは、薬師丸ひろ子鶴見辰吾に言うセリフからきていると思われる。)

(映画が始まって早々に、坂本龍一の「Iconic Storage」が流れてきて、うわー、時代だ、となるのだが、その後、立花ハジメとトーマス・ドルビーまで流れてきて、ここまでくると軽い同族嫌悪のような感情さえ芽生える。ぼくが高校生の時に作った映画のタイトルは『H』で、これは立花ハジメのアルバムタイトルが由来だ。)