⚫︎『転校生』(大林宣彦)。10年以上前になると思うが、NHKのBSで放送されていたのを録画して、それをディスクに焼いたものが出てきたので観た。ディスクの状態が悪く、しばしば動画がフリーズしたし、何度かはディスクが強制的にリジェクトされた。それでも最後までなんとか観られた。
まず、驚くほどの「不適切表現」の連続で、80年代ってこんなだったっけ、いや、確かにこんなだったのだ、と思った。自分とほぼ同世代の男の子たちの振る舞いを、今観て、ウワーッとなって、針の筵に座るような感じもある。小林聡美の兄(多分、中川勝彦だと思う)が妹に、「女の子にはSFは無理だよ、発想の飛躍がないからな、ママを見てればわかるだろ」とかサラッと言っていて、「マジか、それ言うか、キツいわ」と思ったりした(特に、兄が嫌な奴だということを表現しているセリフではなく日常会話だ)。言っている内容も問題だが、兄と妹の家庭内での日常会話が、当然のように兄が上から目線の説教口調というのもゲーッってなる。
(おそらく脚本のレベルでは、小林聡美は古い価値観を持ったいい家のお嬢様という設定で、兄との会話もそんな家庭環境を表現しているのだろうが、この役に小林聡美を選んだ時点で脚本の意図をかなりの程度裏切っている。そして、この「裏切り」がなければつまらない映画になっただろうと思う。)
ただ、そういう、昭和末期の価値観にドン引きすることと、映画としてこの作品がとても良いものであることとは、排他的ではなく、両立するものなのだとも思った。思いの外、良い映画だった(「昭和の価値観」のなかでなければ小林聡美にこんなふうには演じさせられなかっただろうから、この「映画としての良さ」がそもそも搾取であり、倫理的に問題だ、という意見もあるだろう)。大林宣彦が、俳優の身体的躍動を根拠にして映画を作ったのは、後にも先にもこれ一本だけなのではないだろうか。尾道の、高低差があって狭く入り組んだ空間を、小林聡美と尾身としのりが跳ね回っている。まるで相米慎二みたいな大林映画(クローズアップはたくさんあるけど)。この作品の前の『ねらわれた学園』では薬師丸ひろ子の(相米の映画でみられるような)身体的躍動を完璧に封印した大林だが、『転校生』では演出のあり方が全く違っている。
(お話の内容や構成としては、男女の体が入れ替わることに伴う戸惑いと、それによるジェンダーバイアス、ジェンダーロールの再-意識化、前景化が、ごくシンプルに語られているのみで、悪質な「不適切表現」まで含め、極めてシンプル、かつ、紋切り型に留まり、突出したエピソードも、説話的な工夫や仕掛けも特にない、凡庸なものだ。そのような脚本を、大林宣彦は、小林聡美と尾美としのりの、演技と身体のありように、シンプルに預け、あるいは、依存して、二人の身体的表出力に全面的にベットするような撮り方をしているように思う。)
(オリジナル版の『転校生』には、リメイク版にある深みや奇妙な屈折のようなものはまったく感じられない。そういうものをできるだけ排除しようとしているように見える。)
それだけ、小林聡美と尾美としのりが特別な存在(特別な出会い)だったのかもしれない。ただこの後、小林聡美は『廃市』に出るし、尾美としのりも『時をかける少女』にも『さびしんぼう』にも出るのだが、二人とも『転校生』の時とは全然違っている。『廃市』の小林聡美は、基本的に誰とでも代替可能な一般的な大林ヒロインと変わらないし、この後の大林映画に出る尾美としのりは「大林映画に出る尾美としのり」の役を忠実に演じているかのような安定感があるのだが、二人とも、『転校生』ではもっと危うくて生々しく、そしてよく動く(この映画以外で、こんな尾美としのりの顔を見た事がないという「顔」をとらえたカットがいくつもあった)。
大林宣彦はこの作品以外では、俳優にこのような感じの(相米慎二的な)無茶をさせることはない。俳優はあくまでウソとして役割を演じているのであって、ウソ臭くなければならず、俳優の存在の、ナマの生々しさみたいなものには頼らないというのが基本方針なのだと思う。しかし、この作品だけ明らかに調子が違っていて、そしてそれはけっこううまくいっている。そのことに驚いた。
(とはいえ、男女の体が入れ替わっていることを表現するため、小林聡美の振る舞いは過剰に粗暴だし、尾美としのりの振る舞いは過剰にナヨナヨしていて、その意味では、二人の演技は「あからさまに紋切り型」で、極めてウソ臭く、そのウソ臭さが大林的異化効果を作り出してはいる。ただ、それとは別の位相で、身体表出的生々しさが、同時並走的にある。)
いろんな意味でやばい映画だな、と感じた。
(小林聡美が、自転車を漕いで線路を跨ぐ陸橋を越えていくカットは、中学生の時に初めて観た時から強く印象に残っているし、また改めて観て、改めてすごいカットだと思った。)