●『誘惑は嵐の夜に』(いまおかしんじ)をDVDで。すごく良かった。しかし、突出した細部のようなものはない。お話はありきたりだとも言えるし、すごい演出がなされているわけでもないし、驚くべき演技があるわけでもない。あらゆる要素が普通だ、とも言える。例えば、いまおか監督の(『かえるのうた』の裏パーションとも言える)『川下さんは何度もやってくる』という映画をぼくはとても好きなのだけど、これは良くも悪くも佐藤宏という飛び道具とも言える俳優によって成り立っている映画だと思う。でも、『誘惑は嵐の夜に』はそうではない。どこをみても当たり前のことしかやっていない感じがする。でも、それが全体としてみるとすごい。これは円熟と言うべきものなのだろうか。
(喋らない父、青汁を飲むバーのママ、ホステスの尻を触ろうとする作業着のおっさん、ぼさっとした鬱のミュージシャン……、これらがすべてすばらしい、そして、石を売る青年は、この映画の外でも本当に石を売っているとしか思えない。)
●この映画は、母と娘が入れ替わるという話だ。作中でも『転校生』(大林宣彦)というタイトルが口にされるし、入れ替わった母と娘が元に戻る場面は『転校生』の「階段」が参照されてもいる。でも、実質的には、母親が若返るという話だと言った方がいいと思う。この映画は本当は『秋日子かく語りき』(大島弓子)の映画化なのではないか。表面的にはかなり違うけど、魂としては、大島弓子を受けている映画だと思った。
(母と娘の心と体が入れ替わることで、母親の身体にとっては、精神が若返り、母親の精神にとっては、身体が若返る。精神として若返った母と、身体として若返った母との、二人の母が出現する。そういう感じ。)
●あと、(この映画に限らず)いまおかしんじは女性が好きなんだろうなあと思う。よく、「監督がこの女優に惚れているのがわかる」という言い方を聞くけど(これはぼくにはよく分からないのだけど)、いまおかしんじの場合は、ある特定の対象に対する強い愛ではなく、「女性一般」あるいは「女性的なもの」に対するゆるい愛着と信頼がある、という感じがする。適当な言い方ではないかもしれないけど、女なら誰でもいいという感じの鷹揚ささえ感じる(実際には「誰でもいい」ということはないだろうけど)。
映画というものが視覚性の強い媒体であり、監督がヘテロの男性である場合、女優はフォトジェニックな対象であることが多い。そうでない場合は、存在感みたいなものが強調されたりする(ホン・サンスでさえ、女優に対してフォトジェニックであることを求めているようにみえる)。しかし、いまおかしんじは、女性の美しさみたいなものにも、身体としての存在感のようなものにもあまり興味がない感じがする。いまおかしんじの映画にでてくる女性の魅力は、そういうものとあまり関係がない。いまおかしんじにとって個別の女優は、彼が信じる「女性的なもの」をその都度具体化する媒介のような存在なのではないか。「(極端な言い方をすれば)女なら誰でもいい」という感じの鷹揚さとは、どんな女優からもその具体性をその都度発見できる、というような懐の深さのことではないかと思う。
(そのような意味で、五十代後半の郄樹澪と、二十代後半の石川優実は、いまおかしんじ的には実際に「交換可能」な存在なのではないか。例えば、五十代後半の高樹澪を主演として、二十代後半の女性が主人公である物語を映画として撮ることになったら、それはそれでやれる、と、いまおかしんじは考えているのではないかという気が、この映画を観ているとしてくる。)
●そして、男性はみんなぼさっとしている。