●『若きロッテちゃんの悩み』(いまおかしんじ)をDVDで。これはすばらしい。だけど、この映画が「いかにすばらしいのか」ということを書くための言葉がみつからない…。ただ、すばらしいとしか言えない。なので、以下に書かれるのはどうでもいいこと。
●俳優がすばらしい。いや、俳優が、とか、演技が、とか、演出が、とかではなく(そういう個別の要素としては切り離せない)、このような登場人物たちを存在させたことがすばらしい。ある役が事前にあって、それを特定の俳優が演じるというのではなくて、映画全体によって、ある虚構の人物が生み出される。加藤宏という人物が、ラブシングル中田という人の身体を借りて、彼を撮影するカメラによって、この世界に生まれる。それは「映画」でしかあり得ないが、おどろくべきことにちっとも「映画臭く」ない。
●男二人に女一人という黄金のパターンは、しばしば、その黄金パターンの踏襲にしかならないのだけど、明らかに意図的に黄金パターンなのに、そうであることがどうでもよくみえるというか、そんなこと全然関係ないという風にみえる(それはやはり、俳優が途上人物に「成っている(成り切っている、ではない)」からなのだと思う)。例えば『恋人たちは濡れた』とかを自然に想起する(特に海辺で服を脱ぐ場面など)のだけど、しかしこの映画は、そういう他の映画との関係によって成り立っているのではない感じ。遠くこだまを交わしつつも、この映画はこの映画であることの必然性によって成り立っている。相互参照の罠から、軽く身をかわす。
いまおかしんじは、やはり自動車なのだなと思った。『たまもの』でも『おじさん天国』でも、自動車の空間がすばらしかった。この映画ではほぼ全篇を通して自動車が出てくる。しかし、走行する自動車を、こんなにいろいろなやり方で撮ったことは今までにあるのだろうか。
車の窓から海が見えるカットは、あれは合成なのだろうか。それとも、デジタルで撮ったことの効果みたいなものなのだろうか。
●『魔法少女を忘れない』を観た時も思ったのだが、デジタルビデオと海ってすごく相性がよいのではないか。今までに映画ではあまり観たことのないような海の感触。
●開放的で幸福な場所としての海に対して、孤立した水としてのダム。ダムから海へ、そしてまた、海からダムへ。この運動こそがこの映画であろう。
●唐突に泣くこと。それが、映画としてのリアリティとも、物語上のリアリティとも、別のリアリティに通じていること(泣くことは、後に死体が発見されることである程度「説明」されてしまうのだが、その説明には決して回収されない)。
●食事の場面がよい。そして、食事、排便、屁、死体という展開。
●この映画は、死体が出てこなくても十分に成り立つようにも思える。しかし、死体がなくても成り立つところに、唐突に死体が出てくるところがいまおか的な感触なのだ。『たまもの』でも、別にボーリングの玉男はなくてもいいと思うのだが、しかし、あれがあることで『たまもの』は『たまもの』となった。
いまおかしんじの映画では死者は帰って来る。この感触が、その作品世界をリアリズムとは別の位相へと押し上げる。『おじさん天国』でおじさんは地獄から帰ってくるし、『かえるのうた』では(死んではいないが)、病気で故郷に戻った友人が、何年か後に唐突にかえるの着ぐるみと共に下北沢へ帰って来る(これはほとんど幽霊という感じだ)。『ゴーストキス』や『若きロッテちゃんの悩み』では、本編の物語としては死者を送るのだが、ラストカットやエンドクレジットで、唐突に死者と生者とが同一の場所にいる場面が提示される。そういえば『島田陽子に逢いたい』でも、死者と生者とが共存する場所として「映画」があった。物語(公式見解)としては、死者はきちんと見送らなければならないが、しかし一方で強固に、死者と生者の共存が信じられている。いやむしろ、死者と生者とが共存可能な場所をつくりだしたいということが、そもそも作品をつくる原動力となっているのではないかとさえ感じられる。
『ゴーストキス』や『若きロッテちゃんの悩み』では、その共存の場面が唐突で、かつ一瞬のことであるだけに、一層強く印象に残り、この感じこそが作品の裏地にあると強く感じられる。
●『かえるのうた』で、友人が帰ってきた場面はミュージカル調となる。『若きロッテちゃんの悩み』でも、エンドクレジットで死者と生者が踊っている。いまおかしんじにおいては、歌や踊りこそが、死者と生者とを共存させる。そのような意味で、新作『おんなの河童』がミュージカルであるらしいというところに興味が湧く。
●結局、この映画の「良さ」については何も言えていない。