2022/03/01

●物事を合理的に理解し、判断していると自分では思っている我々か、実はそうではなく、意識できないレベルで「神話論理」のようなものに動かされていると考える点で、レヴィ=ストロース神話論理精神分析も同じ傾向をもつ。というか、精神分析とは、現代(というより「近代」かも)に特化して最適化した神話論理であり、神話論理の方がより普遍性が高い、といえるのかもしれない(神話論理と資本主義の関係というのは、批判的に考える必要はあるかもしれないが)。以下、引用、メモ。『火あぶりにされたサンタクロース』(クロード・レヴィ=ストロース 中沢新一・訳)より。このテキストは1952年、フランスで「アメリカ的なクリスマス」が一般化して数年という時期に書かれている。

●大人/子供という差異化、世代の異なる二つの集団の「取引」と相互補完的な対称性

《(…)サンタクロースと他のまともな神々との唯一の違いと言えば、大人たちのほうが、このサンタクロースという「神」の実在を信じていないところにある。それなのに大人たちは、子供たちにその実在を信じさせようとして、あれやこれやの手をつくして、神秘化しようとしている。》

《つまり、サンタクロースは社会を、いっぽうに子供、もう一方に青年と大人を配した二集団に分割する、差異の原理を表現しているのだ。この点で、サンタクロースの信仰を広い観点からとらえてみるならば、民族学者がこれまで多くの社会で研究してきた通過儀礼やイニシエーションの儀礼などを含む、きわめて広大な信仰とプラティックの範疇にそれが属していることはまちがいない。ほとんどすべての人間集団において、子供たちは(ここには女性たちが含まれることもある)、入念に管理されたある種の神秘についての知識を知らされないことによって、あるいはつくり話がめぐらす幻想のヴェールに阻まれて、男性の集団から排除され。分離されている。男性集団は、さまざまな工夫によって、自分が独占管理する神秘を、しかるべき時期がくるまで子供や女性に秘密にしておき、時期が来ればそれを若者たちに教え、それによって彼らを大人の集団に迎え入れるのである。》

《(…)サンタクロースとアメリカ合衆国南西部に住むプエブロ・インディアンがおこなう「カチーナ」との類似に、どうして驚かずにいられようか。特殊な衣装を身にまとい、仮面をかぶった「カチーナ」たちは、祖先の霊や神をあらわしている、と信じられている。彼らは周期的に、時を定めて村を訪れては、そこでダンスをしたり、子供たちに褒美や罰をあたえるのである。仮面をかぶって踊っているのが両親や親戚の者だと、子供たちに見破られないように、伝統のやり方で工夫をこらした見事な変装に身をやつして、「カチーナ」神は出現する。(…)「カチーナ」も「鞭打ちじいさん」も、子供に懲罰を与える役目をになっていた。だが、現代の教育はこういう存在への呼びかけをけむったいものに感じていて、その反動で、サンタクロースのような優しい人物像が高い人気を博すようになったのではないかと考えられるのである。》

《(…)この祭りは、広い意味でとらえれば、二つの世代の間にとりかわされるきわめてやっかいな「取引」の結果なのだ。》

《(…)先にとりあげたプエブロ・インディアンの「カチーナ」の儀礼のことを考えてみよう。(…)その神話によれば「カチーナ」神は、プエブロの祖先が移住を続けていた頃、川に溺れてドラマチックな最期をとげたはじまりのプエブロの子供たちの魂なのだ。つまり「カチーナ」は、死が必然であるとともに、死後の生命もまた実在であると語る神なのだ。この神話にはまだ続きがある。現在のインディアンの祖先がようやくこの地に身を落ちつけた頃、「カチーナ」は毎年、村人の所を訪れては、去っていくときにきまって子供たちをさらっていったというのだ。子供たちがさらわれていくことを嘆き悲しんだプエブロたちは、そこでこの神に頼んで、毎年、仮面と踊りで「カチーナ」を演じてみせるという約束と引換えに、神にはあの世にと留まってもらうことにしてもらったのである。子供たちが「カチーナ」の神秘の儀礼から排除されているのは、子供たちをおびえさせるためなんかではない。私の考えでは、事情はまったく逆なのだ。つまり子供たちこそ、正真正銘「カチーナ神そのもの」なのだ。(…)子供たちがこの神秘化のおおもとになっている現実そのものを、みずからの現実によって直接表象しているまさにそのことによって、儀礼の中核から排除されるのである。》

《(…)イニシエーションを受けていない子供や女性は、別に無恥や錯覚その他もろもろの否定的な要因によって、欠如の状態におかれているわけではない。イニシエーションを受ける者と受けない者との間には、じつはポジティブな関係がある。それは、いっぽうが死者を表象すれば、もういっぽうは生者を表象するという、二つの集団の相互補完性をあらわしている。儀礼の過程において、それぞれの役割は、何度も入れ代わる。この二元性は、視点の相互性をつくりだし、その相互性はまるで合わせ鏡のように、永遠に互いを映し続けるのだ。》

●「(身分を超えた)連帯の強化」と「(世代間の)敵対の激化」という二重化、その対立と調停者。

(ここで、「喜びの司祭」の位置に「聖ニコラウス」が代入されることで、記号の性質が真逆へと反転してしまう(「反抗する若者」から「若者への善行」へ)というのがいかにも「神話論理」的だ。)

《(…)宗教史学者や民族学者の研究は、フランスのサンタクロースである「ペール・ノエル」の遠い起源が、中世の「喜びの司祭」や「サチュルヌス司祭」ないしは「混乱司祭」などにあることを認めている。(…)彼らはいずれも、短いクリスマスの間だけ「王様」となることを認められた者たちで、ローマ時代のサトゥルヌス祭りの「偽王」の性格を、正しく受け継いでいる。》

《(…)ローマ時代のサトゥルヌス祭の場合と同じように、中世の降誕祭にも、たがいに混在しあい対立しあう二つの特徴をみいだすことができる。まずひとつの特徴は人々の寄り集まりと、そこに実現される一体感の高揚である。このお祭りの間、階層や身分を分け隔てる仕切は一時的に取り払われた。奴隷や召使いが主人の食卓に座り込み、主人が彼らのためにお給仕をした。豪華な食べ物でいっぱいの食卓はあらゆる人々に対して開放され、男女はおたがいの衣服を交換したのである。》

《だがそのとき、社会集団は二つに分裂をおこす。これが第二の特徴だ。このとき、若者たちは自分たちだけで自律的な集団をつくり、「若者司祭」と呼ばれる彼らの頭を選び出したのだ。この頭を、スコットランドでは「狂気の司祭」と呼んでいた。そしてその呼び名が示すように、若者たちはこの「若者司祭」をリーダーにして乱暴狼藉をはたらき、放蕩のかぎりをつくして、ほかの人々に損害をあたえるところまでつっぱしっていったのである。》

《(…)こうしてクリスマス期間中、サトゥルヌス祭の期間と同じように、社会は「連帯の強化」と「敵対の激化」という反対物の結合からなる、二重のリズムにしたがって動いていたことになる。この異質な二つの特徴は、対立的につながりあっている。このとき「喜びの司祭」は、この対立の調停者として働く。「喜びの司祭」は、いわば世間公認で、公の権威筋からも叙任さえ受けていた。彼の使命は、若者組を指揮して、狼藉のゆきすぎを一定の限界内に押さえておくことにあった。》

《(…)西欧のサンタクロースと彼の煙突や靴下に対する偏愛などは、最近になって起こった聖ニコラウス祭を三週間ほど後の降誕祭に吸収してしまう祭日の移動によって、しごく簡単に説明することもできる。若い司祭が老人に変わってしまった理由も、ここか説明がつく。(…)ここでは、ある役割を演じていた現実の人物(聖ニコラウス)が、神話の人物に変形されている。そして、それといっしょに、大人たちに対する敵対を象徴する「若さの発散」は、若者に対する優しさを表現する「円熟の思慮」の象徴に変化をとげてしまった。それに、狼藉者の代表格だったものが、善行の推奨者になりかわってしまっている。こうして、一連の変形の結果として、親たちの世代に攻撃的な態度をとる若者たちに変わって、つけ髭でわが身を隠して子供たちのごきげんを取る両親が出現することになった。》

●我々と死との関係の変化と、サンタクロース。

《(…)秋のはじまりから光と生命の救出を意味する冬至の日にいたるまで、秋という季節は、儀礼のレヴェルでは弁証法的な歩みをともないながら進行していく。そのうちの重要な段階は、つぎのようなものである。まず、生者の世界に、死者がもどってくる。死者は生者をおどしたり、責め立てて、生者からの奉仕や贈与を受け取ることによって、両者の間に「蘇りの世界(モンド・ヴィヴェンディ)」がつくりあげられる。そして、ついに冬至がやってくる。生命が勝利するのだ。そののちクリスマスには、贈り物に包まれた死者は、生者の世界を立ち去り、つぎの年の秋まで、生者がこの世界で平和に暮らすことを認めてくれるのである。》

《(…)クリスマス・イヴの晩餐が、もともとは死者に捧げられた食事であることがいよいよあきらかになってくる。この晩餐の食卓では、招待客が死者で、子供たちは天使の役目を足しているのだ。天使たち自身も、死者であることを忘れてはならない。》

《これまでに見てきたように、サンタクロースは、「狂気の司祭」の後継者であると同時に、その反対者でもある。この変化は、私たち現代人が、死との関係改善をはかったためにおこったものである。私たちは、ふだんは死を遠ざけておくためには、逆に周期的に死が秩序や法を蹂躙するにまかせるような方策をとるのがよい、とはもはや考えなくなった。死との関係は、いまではすこしばかり尊大な感じもする恩情の精神に、支配されているのである。私たちは、死に対してずいぶん寛容になった。それというのも、死に対してイニシアチブがとれるようになったためだ。そのために、いまでは、死には贈り物を贈るだけで充分になった。しかも、その贈り物はと言えば、おもちゃのようなものでいいのだ。ようするに、贈り物をした、ということの象徴がありさえすればよいのである。》

サクリファイスとしてのクリスマスプレゼント。

《(…)私たちは、子供たちにとってのサンタクロースの権威を傷付けないよう、いろいろな犠牲を払って、気を配っている。このことは、私たちが心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心なしの親切などというものが存在することを信じていたい、という欲望を抱き続けていることが、しめされているのではないだろうか。ほんの短い間であってもよい、あらゆる恐れ、あらゆる妬み、あらゆる苦悩が棚上げにされるそんなひとときを、私たちは望んでいるのではないだろうか。たぶん、私たちは完全には、サンタクロース幻想を共有することはできない。それなのに私たちは、この幻想を守る努力をやめない。なんのために? たぶん、私たちは、その幻想が他の人々の心の中で守られ、それが若い魂に灯を灯し、その炎によって私たち自身の身体まで温められる、そんな機会を失いたくないのだ。私たちは、このおもちゃはあの世からの贈り物なんだよ、と子供たちに教える。しかし、実際には、私たち自身がそうした贈り物をあの世に届けたい、とひそかに欲望しているのではないだろうか。クリスマスのプレゼントは、そういう私たちの心の秘密の部分に、ひとつのアリバイをあたえているのだ。クリスマスの贈与。それは生きていることの穏やかさに捧げられた「サクリファイス(供犠)」なのだ。》