国立西洋美術館とメゾンエルメスフォーラムに行って、アートトレイスの松浦寿夫レクチャーを聴講した。
●西洋美術館のモネ展は、目玉となる作品が普段常設で展示されているものというのはどうなのかと思った。とはいえ、普段とは違う感じの展示で観て、「睡蓮」と「舟遊び」は本当に素晴らしいなあと改めて思ったけど。
新館でやっている「スペイン・アンフォルメル絵画」展。アンフォルメルとかいっているけど普通に抽象表現主義的な絵が展示してあって、これは、スペインのアメリカ型絵画ということなのではないかと思った。エステバン・ビセンテという人の絵がちょっとよかった。
エルメスのクリスチャン・ボヌフォワは、なんというか、現代フランス美術のダメなところがよく出ているという感じがした。
確かに悪くないし(刺激を受けちゃったりするところもなくもない)、絵のことをすごく良く知っている人がつくった作品だとは思うけど、だからこそ、絵画という制度が安定した前提としてあって、そこに何の疑問も持たずに、そのなかで手を変え品を変えして上手いことやっているだけではないかと感じてしまった。なんか、中途半端に人をくすぐる程度にセンスがいい感じなのも、なんだかなあ、という……。これはかなり同族嫌悪的な感情でもあると思うけど。
「いや、それ分かる、すごく分かるんだけど、でも、そこで満足しちゃったらダメでしょう、問題はそこから先でしょう」と大声ですごく言いたくなる。で、こういう人が哲学と歴史の博士号をもっているとか、もともと絵画の研究をしていたというのだから、あーっ、と思ってしまう。あーっ、もう、おフランスって!、と思ってしまった。
●松浦レクチャー。前回のレクチャーを聴講していないので正確ではないかもしれないけど、松浦さんが「インフラ」という言葉で言おうとしていることは、固有な何かではなく匿名的な形式のことであり、そしてそれは、子供たちが勝手に遊んでいる時に、「自分たちが遊んだその遊びそれ自身の中から事後的に見出されるルール」のように生成され、それがある集団のなかで「共有された約定」のようなものにまで育っていったもの、という感じのイメージでよいのだろうか。そこには、見出されてはすぐに忘れ去られてしまうような「遊びのルール」から、制度として強く定着した儀礼や「国語」のようなものまで、固定(束縛)度合いの様々なグラデーションがあり得る。
そして、そのようなものとしてのインフラと個との関係は、アルバースが色彩について言っていること(色彩はそれ自身として自己準拠的に機能する――個――のと同時に、他の色彩との関係によって機能する――インフラ――という二重の機能をもつものでもある)とのアナロジーとして考えられる。
あるいは、インフラとは、建築そのものというより、ある建築の様式、あるいは、実際には存在しない建築物のマケットのようなものとしてもイメージされているようだった。
そして、「草枕」や「田園の憂鬱」のような小説からは、「いわく言い難い感情(感興)」という「インフラ」の発生が読み取れるのではないか、と。
ここではおそらく、生まれては消え、常に流動するような「子供の遊びのルール」と、既に固定されて強い力をもつ「共同体の約定」のようなものの中間にある「可塑性をもつインフラ」として、「存在しない建築物のマケット」や「小説にあらわれる(ある意味紋切り型でもある)感情」が捉えられ、そこにある創造的な可能性が探られているのではないかと感じた。
●例えば、一方に、子供たちが特にルールもなにもなく、ただ好き勝手に行為していて、しかしその行為のなかから事後的にルールが生成される(発見される)ということがあるとして、もう一方に、人々が特に統一した意思もなく、それぞれが好き勝手にバラバラに行動していて、しかしその行動の莫大なデータ(ビックデータ!)が収拾され、解析されることで、そこに明らかな集団としての傾向性や法則性が見出されるということがある、として、この二つをどう関連づけて考えればよいのだろうか、ということを、レクチャーを聴きながら考えていた。
子供たちはもはや、自分たちの行為のなかにあるルールを発見・創造する必要はなく、あるいは、それよりも速く、コンピュータがその「答え」をもたらしてくれるとしたら、それは人間を超えた創造性(創造的インフラ)をコンピュータがもたらしてくれると考えられるのか、それともそれはより強力な束縛(権力)と考えられるのか。