デュシャンの画集を改めて観ていて、当然だけど、やはりレベッカ・ホルンデュシャンとは全然違うんだな、と思った。レベッカ・ホルンの孤独な自動装置たちは、それでも誰かに向かって上演されているのだが、デュシャンの装置は、上演とは別の有り様をしている。
デュシャンの初期の絵画は、油絵の具が厚塗りの表現主義的なものだが、この時点で既に近代絵画的リアリズムとは根本的に相容れない感覚が表面化しているようにみえる。近代絵画的リアリズムというのは、ここでは、クールベから、セザンヌマティスを経て、ポロックやニューマンまでもを含むある系譜のことをイメージしている。初期のデュシャンにおいて問題となっているのは油絵の具を厚く塗り重ねる、というか、塗り固めることによる質感であり、その質感によって対象を創造しようとしているかのようだ。例えば、クールベの絵の具の厚さ-質感は、絵画がたんに表面的なイメージとして現実に似ているだけではなく、現実と同等の、現実と拮抗し得る「深さ」をもつことを目指すものだが、デュシャンによる表現主義的な絵の具の厚みは、現実とは別の世界にある「対象」を、絵画として生み出すための「現実的な資源-材料」のようなもののように感じられる。だからそれはクールベとは逆のベクトルをもち、厚みではなく(極薄としての)質感が重要なのだ。ただ、近代絵画的リアリズムの中核とも言えるセザンヌの初期作品と、デュシャンの感触は近いものがある気がする。
出発点としては近い資質を示すセザンヌデュシャンは、しかしまったく別の方向へと進む。セザンヌが自然に対して開かれるのに対し、デュシャンは、他者をメカニズムへと解体するかのような方向へと進んで行く。いや、この言い方はおそらく転倒していて、デュシャンは、他者と同等なものを、メカニズムによって創造しようとしているのだろう。それはおそらく、人造人間や人工知能をつくりだしたいという欲望に近い気がする。メカニズムへの興味によってデュシャンの絵は、次第にキュービズムに近づくとともに、塗りが薄くなってゆく。対象を分解したのにち再構成するという点で、キュービスムとデュシャンは親和的だが、キュービスムにとってその目的は絵画の新たな空間性、造形性の創出だけど(だからそれはリアリズムに属する)、デュシャンはそこにはあまり興味がないようにみえる。デュシャンの欲望は、人造人間(人工的な他者)を出現させること、そのためのメカニズムをつくりだすことにあるように思う。それでも、絵を描いている間のデュシャンは、みずからの欲望と、絵画としての空間性、造形性との折り合いをつけるための努力は怠っていない。しかしそれにはもともと無理がある。
そして1913年に爆発的な飛躍が訪れる。この年にデュシャンはタブロー描くくことを止めて、最初のレディメイドの作品だと思われる「自転車の車輪」を制作し、後の「大ガラス」に通じる、枠に入った板ガラスに絵を描く「隣金属性の水車のある滑溝」を手がける。ここでは、タブローという形式によって強いられていた絵画的空間性、造形性からの解放があり、それによって、より直接的に質感とメカニズムの構築へと進むことになる。ここに至って、他者が必ずしも人の形をしている必要はなくなるのだ。
繰り返すが、デュシャンの作品はおそらく、上演されるもの、表象されるものではなく、(私に対して)他者として機能するメカニズムを創造することで、だからそれは、他者を表象し、他者の隠喩となるものではなく、他者そのものが私によって人工的に創造される、ということなのだ(ホフマンの「砂男」みたいに)。だからデュシャンの作品はメカニズムそのものであって、「上演されるメカニズム」であるレベッカ・ホルンとは違っている。