レベッカ・ホルンの作品の面白いところは、一つは、一昨日書いた、自閉的な時間性にあって、つまり、ずっと沈黙-静止していて、いきなりきまぐれに動き出す、というところ。静止と運動との関係が作品それ自体に内包されていて、周囲の環境との関係や、誰かの人為的操作によるのではないということ。こちらが呼びかけてもまったく応えないのに、ある時とつぜん、ぼそぼそっと独り言を言い始め、勝手にまた黙る、みたいな感じ。あるいは、演劇は上演されるのだが、それは観客に向けてではなく、真夜中の劇場で誰にも観られなくても勝手にはじまる、というような。
もう一つは、その運動の始点となる(多くの場合たんじゅんなモーター)と、その運動が作用する場所(例えば、硬質な卵の表面に鴉の羽が触れる)との距離が離れていて、その間が金属の直線的な棒によって媒介されているところ。モーターの回転運動が、金属の棒によって変換されて、傘が開いたり閉じたりするような運動や、ピストン運動になったりするという、とてもたんじゅんなメカニズムなのだが、その時の運動の原因となる場所と、その結果なにかしらの作用があらわれる場所とに微妙な距離がある。つまり、動力源とそれが顕在化する現象点とが乖離しているのだが、しかしその関係はブラックボックスに隠されるのではなく、メカニズムとしてはっきり目に見えていて、その関係を支えているのが、無機質で単調ありつつも、ハードで、鋭利さと堅さによって攻撃的でさえある金属の棒であること。
ふと、中西夏之が絵を描いている映像を思い出す。ずっと以前に観たその映像では、キャンバスが天井からの一本のヒモでつるされていて、それに、二メートル以上あると思われる長い柄の先の筆で触れて、絵の具がキャンバスに付着する。キャンバスは一本のヒモでつるされているだけだから、筆先が触れるほんのかすかな力が加えられただけで、不安定に揺らぎ、回転してしまう。しかしここでは、動力源は人間-画家であり、木製の柄も、筆先も、絵の具も、キャンバスも、やわらかいものである。ここでの画家の位置に自動的に運動したり静止したりするモーターがあり、キャンバスは硬質なガラスとなり、柄は細く鋭利な金属の棒となって、筆先が鴉の羽になれば、レベッカ・ホルン的な装置になる。
ここでは、鴉の羽とガラスとの接触がもたらす触感が、装置の生み出す意味となるのだが、しかしその触感はたんに羽とガラスの質感だけによって発生するのではなく、その運動が遠く離れた場所から操作されていること、その操作的運動が、特定の目的や欲望をもった主体ではなく、自動的にオン/オフする結果に無関心な機械によってなされていること、そして、その間の距離をつないでいるのが、無機質でもあり、あやうげでもあり、鋭利で暴力性も予感させる金属の棒であること、そして、その自律-自閉したメカニズムの全体が、はっきりと目に見えるような形で示されていること、それらのすべてによってモンタージュされた、「ある触覚」の質であるのだ。
装置そのものが自律-自閉的であることと、そのような装置の自閉性が、それを観る観者に対してもつ表現性とは別のものであろう。その自閉的な装置は、それでもやはり、誰かの視線に向けて上演されているのだ(美術作品なのだから当然だけど)。自閉的な装置のもつ上演-表現性とは、そのメカニズム全体を俯瞰的に把握できる、という点にある。そこには、「人間的な欲望や感情の否定」という人間的欲望-感情と、しかし、そのなかにもかすかに混じる隠喩的-想像的(性的)気配のなかに宿る人間的存在の残り香を、自らの存在の場所として確保したいという欲望-感情にマッチする。