●形態と線のみが問題となるドローイングであれば、それを描くときに必ずしも「視覚」を必要としない。あるいは、視覚は本質的な問題ではない。なぜならそこで問題になるのが、一定のフレーム(空間)内での運動であり、複数の運動の構築(構築的重ね書き)であるから。例えば、生まれつき全盲の人であっても、我々と同じ三次元空間の内部に住んでいるのだから、なにかしらの空間の表象と身体イメージをもつだろう。50センチ右には壁があるとか3メートル先に段差があるという世界を表象し、その中でいかに動くかを思い浮かべて動くことにかわりはない(とはいえ、荒川修作が注目するように、生まれつき全盲の人がどのように空間の表象を組み立て、どのように身体イメージを得て、それはどのような形のものであるのかということは、とても興味深いことだが)。であるならは、紙なりキャンバスなりという一定の広がりを持つ平面の上を舞台に、堅かったり柔らかかったりする描画材(運動器具)を用いて、どのような運動の痕跡を積み上げ、構築してゆこうかと構想し、それを実現させることは充分に可能であろう。そしてその自らの行為の結果を(見ることを媒介とせずに)把握し、反省的に判断することも可能であるはず。目が見えない人は、ただ絵を「見る」ことが出来ないだけで、(空間を感知するのだから)描くことが出来ないわけではない。「見える」我々が描くことと本質的な違いはない。
それは例えば、音楽においてリズムを感じるのに(あるいはリズムを刻むのに)、必ずしも耳が聞こえる必要はないということと同じではないだろうか。耳の聞こえないパーカッション奏者は充分に考えられる。ドローイング(線と形態)が、ある一定の空間内での運動であり、運動の構築であるとすれば、リズムは、ある一定の時間内での運動でありその構築だということではないか。それは、線やリズムは外延的なものと関わり、その分節や運動であるから、我々が外延を共有する(という条件を前提としても良いとする)限り、異なる感覚器官の間でも翻訳・変換可能であるということだろう。
だが、盲目のカラリストというのは考えにくい。色や調子(トーン)ということになると、どうしても視覚という特定の感覚と切り離せなくなる。赤から感じられる感覚を、例えば「運動」に変換することは困難だ。色彩は内包的であり、それが見ている人の内にあるのか、それともその外にあって共有されているのかはっきりしない。3メートル先に落差があるという空間的事実は誰にも共有されるが、赤という色によって与えられる感覚は、色が見える人にとってしか共有されない。
だがここで逆説があらわれる。赤という(光の波長は実在するとしても)感覚は色が見える人にとってしか存在しない、ある音色、ある和音が与える感覚は耳が聞こえる人にとってしか存在しない、リンゴの味は味覚を感じられる人にとってしか存在しない。それぞれの感覚は、特定の感覚器官と強く結びつき、その形式に依存し、そこに特化され、自閉しているようにも思われる。だがその時、視覚によってしか感受(構成)できないはずのある配色から得られる感覚が、ある和音と響くことがある。あるいは、何かを食べた時のその味がある音色(音「色」)を想起させる(呼び寄せる)ということもある。例えばセザンヌは、「フローベールの重たい青」というような言い方をする。そしてその青に導かれて老婆の絵を描く(その青はセザンヌには視覚的に「見える」のとは違うやりかたで見えている)。それはフローベールの小説に「重たい青」という単語がたくさん出てくるということではない(老婆は出てくるけど)。あるいは、ここで言うのは、リンゴの色がリンゴの味を想起させるという種類の結びつきとは違うことだ。このような、ある特定の感覚器官に依存した感覚と、別の感覚器官による感覚との間に生じる、響き合い、繋がり、変換、ずれ込みは、感覚から感覚へと直接的に移行するが、その変換の妥当性は外的(外延的)な条件によって保障される(測定される)ものではない。
世界の広がりや遠近に関わる運動とは異なり、感覚は世界の「深さ」に関わる。感覚によって得られる世界の「深さ」には、客観的な根拠がなく三次元的には測定できない(絵画のなかには入っていけない)。つまり感覚的な「深さ」は外延的世界のなかでは厚みのない極薄(デュシャン)のなかにしか場所を持てない。
●運動と感覚とは必ずしも相容れないものではないと思う。感覚は運動のなかであらわれ、運動は感覚に導かれもする。とはいえ、ある感覚が強くなってくるとそれは運動を遠ざけ、ある運動に没頭するとそれは感覚を遠ざける傾向にあるとは言える。だけど、運動が、その運動の内部でそのまま感覚と化することもある。例えば、どこまでも続く砂浜を延々と歩き続けるとき(正月に実家に帰った時にそれをした)、歩くという運動が周囲の環境や状況の変化(広がりや遠近の変化)にまったく対応していないように感じられるので、歩くという運動そのものが感覚となる。
●散歩は、運動と感覚とのどちらかが優位に立つことのない中間状態を持続することではないか。あるいは、常にどちらが優位に立ってもよいという柔軟でどっちつかずの状態で歩きつづけることではないか。そういえば、河本英夫が、触覚とは感覚であると同時に常に運動であり、すべての運動、感覚の基礎であるというようなことを書いていた。