●引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第五章「空間を書き換える---折りたたまれた時間」より。
●運動記憶(空間=知覚システムの創発)
《(ベルクソンは…)基礎的な生物よりもさらに下、「物質」そのもののうちに運動記憶のルーツを見定める。拡張記憶が追加の時間階層をもたらしたのに対して、運動記憶はシステムごとに独自の空間をデザインするのが仕事である。持続理論が絶対時間を仮定しなかったように、知覚理論も絶対空間を前提にしない。》
《ある生物が「本能」として生まれつき実装している知覚や運動の回路---これは出来上がった回路として淀みなく遂行される---自体が、進化スケールでの反復と更新を通じて獲得される過程を考えるわけである。》
《本章では主に、(…)〈進化スケールでの獲得過程としての運動記憶〉に注目する。そこで、これだけを指す用語として、(ベルクソン自身が導入している)「水路づけ(…)」というタームを用いることにしよう。斜面を繰り返し流れる水が、次第に定まったルートを通るようにして、生物と環境の相互作用回路が世界に掘り込まれていく。そうして出来上がったのがバラエティ豊かな「生態」たちだ。この、水路づけの「結果」のほうは、ベルクソン用語である「知覚システム」や、より一般的な言い方である「回路」を用い、特に水路づけとの関連をはっきりさせたい場合には、「水路」という呼称も用いることにする。》
《(…)一口に言えば、空間というもの自体の創発である。》
《(…)絶対時間がないように、絶対空間も存在しない。まったく違うロジックで組み立てられた複数の空間が互いに重なり合って共存するということを、ベルクソンは考えているのである。生物は、それが実現する相互作用のセットによって、一つの「知覚システム」を定義する。そして、生物の数だけ、知覚システムはある。この同じ一つの宇宙のなかに、だ。》
《生物の「頭のなかに」ではない点に注意してほしい。》
《前章まで、本書が辿ってきた進化スケールのプロセスは、〈時間的拡張〉のそれだけである。(…)〈時間的拡張〉は、3章で確認したように、言ってみれば創発する生命への先行投資であり、システム構築に新しい自由度の地平を用意するだけだ。そのなかで、具体的に何を使ってどのような相互作用システムを実現するかを指定する権限も能力も持っていない。》
《(…)そもそもそうした水路を描くキャンバスとして、空間そのものが開かれなければならない。生物進化にとっては、普通これは、遠く離れた対象を察知する、視覚や聴覚のような「遠隔知覚」の出現を意味する。「眼の誕生」だ。ベルクソンは、こうした空間そのものの開けが、〈時間的拡張〉によって可能になったと考えている。》
《目も耳も持たない原始的な生物を想像してみてほしい。(…)接触の瞬間まで感覚-運動は発動しないのだから、まったくもって行き当たりばったりの人生である(人ではないが)。これに対し、遠隔知覚が開発されることで、初めて、「戦略」というものが意味をなす。》
《まずは時間スケールが拡張され、数秒先でもいいから未来の行動が見渡せる生物でなければ、遠くのものが見えたところで仕方がない。その意味で、時間的な領地を確保した分だけ、空間的な拡がりを手にできる。》
《(…)初期生物の運動は驚くほど機械仕掛けである。それに対し、遠くの対象と相互作用するような生物においては、同じ「感覚」や「運動」と言ってもやっていることの複雑さのレベルが異なる。何せ「一連の」の「混成」刺激が一定の仕方で並んだ「時空パターン」が「一つの感覚単位」になるのだ。》
●生物の運動側の条件が知覚空間を定義する
《(…)生物の運動側の条件が知覚空間を定義するという考えは、彼の知覚理論の根幹をなすテーゼであり、私はこれを「鏡映説」と呼んでいる。生物身体にどんな運動記憶がインストール済であるか、その内実が当該生物の前に繰り広げられる知覚世界を定義するということは、逆に、この生物の知覚世界は自らの運動記憶を「鏡のように映し出す」と言えるからである。》
《(…)生物の知覚は、その生物の身体が備えている運動記憶のレパートリを「反映・反射(…)」している。(…)モンシロチョウの世界に紫外線色が描き出されるのは、それで吸う蜜や交尾相手を選ぶという運動を反映している。そもそも呼応する反応行動をもたないものを知覚しても意味がない。運動レパートリ自体が対象を選別しているわけだ。一言でいえば、知覚の鏡映説とは、「どんな運動が可能であるか(行動の可能性)が、その生物が何を知覚するかを決める」というものである。》
《では、具体的に何をどう決めるのか。もちろん第一には(…)知覚の構成メンバーを選抜することだ。第二に、距離を定義する。》
《距離が定義し直されるとはどういうことか。(…)例えば、飛べる蝶にとって「上方」五〇㎝の位置にある餌は「横方向」五〇㎝のそれと大差ないリーチのうちにあるが、飛べない蟻にとって「上方」五〇㎝は、はるか地平線にも等しいほど遠い「単調な風景」(…)に位置する。また、ある生物にとって差し迫った対処を要求するものが、それと「等距離」にいる別な生物にとっては背景に沈む「無差別」なものでありうる。》
《繰り返すが、それは生物の「頭のなかで」つくられるものではない。心的表象能力は知覚システムよりも進化的に後であるし、そのそのシステム同士は互いにオーバーラップしていて、食うか食われるかという死活の関係を取り結んでいたりもするからである。それらは決して、隔絶された観念論的世界ではない。いくつかの結節点を共有しながらも全く異なった仕方で展開される、相対的だが実在的な空間の共存ということを、ベルクソンが本気で考えていたことがわかるだろう。》
《(…)生物ごとに異なる知覚世界を互いに比較し位置付ける上で、共通の土台として綺麗な座標でできた「等質空間」というものがあれば、確かに「便利」である。(…)だが、時間の場合と同じく、地図と土地の混同は慎まなければならない。》
●「類似」の再定義(知覚のタイプ化)
《同様にして、類似も再定義される。ある知覚空間の中で、何が類似し何が類似していないかも、生物の行動レパートリ(可能的行動)によって定義されているということだ。類似とは、生物抜きで「客観的」に決まるものではないが、知性的な精神(主観)の存在を要求するものでもない。(…)ベルクソンは「類似」というもの自体を、相互作用によるタイプ化として、水路・回路自体によって実装しているからである。》
《草原を覆う草たちは、実際に様々に異なっていてもかまわない。今日のハイエナは昨日のハイエナと別固体化もしれない。それでも、ガセルの知覚システムのなかでは、「食べる」や「逃げる」という「一種類の運動出力」を発動させる限りで、そうした差異は無視され、みなひとしなみに「食べもの」「逃げもの(?)」というタイプ・カテゴリーとしてまとめあげられる。》
《そうしたタイプ化(グループとして一括りにすること)を引き起こしているのは何か。それは、ガセルの思考ではない。ガゼルの身体に組み込まれた行動側の解像度の制約である。》
《すると、物質システムとしては連続的な量の違いしかもたなかったはずの様々な状態のあいだに、離散的・タイプ的な線引きが設けられることになる。》
《つまり、生物の登場とともに初めて、そして高次認知を待つことなく、「類似」なるものがこの世界にお目見えするのだ。ベルクソンはこれを「生きられる類似」と呼んでいる(…)。》
《こうした一種の世界内抽象とでも呼ぶべき働きの中で浮かび上がってくる類似とは、捕食対象、天敵、交配相手といった、行動に関連づけられた「意味」に他ならない。私たち人間の世界が言語によって意味付けられていることはよく知られているが、ベルクソンは、分節言語よりもずっと基層の行動レイヤーに、意味的分類のルーツを見定めている(…)。私たちの知能が扱うような一般抽象概念は、こうした生物学的起源を持っているというのである。》
《進化における回路形成は、常に対応する新しい〈問題-応答〉連関のもとにある。その意味で、類似と言うものは、「問題を解決する能力の等しさ」(…)を示すものである。類似する諸対象は、「その具体的な形態は異なるにもかかわらず、一つの問題に対して、互いに類洞的ないし補完的な位置を占めているのである」(…)。》
《生命という活動が、世界との関りのなかで問いと答えの水路を引く営みであるとすれば、知覚空間はこれの一実装だということになるだろう。》
《(…)拡張記憶の場合には、識別可能性の縮減は、それと引き換えに新しい質次元の垂直方向の増設をもたらした。MTS構造である。対して運動記憶の場合には、識別可能性の縮減は、同一スケール内での新しい相互作用ネットワーク、空間構造、運動秩序の構築をもたらす。その成果が、世界を賑わす色とりどりの知覚システムである。》
●「水路づけ」のプロセス(身体の誕生)
《(…)ベルクソンは生物身体において運動回路が形成されていく仕組みを、水が徐々に水路を抉っていく自主的プロセスになぞらえているわけである。「デザイナー」が天下り的に水路を描くわけではないし、逆に、大地の都合だけで決まるのでもない。流れようとする水と大地の絶えざる折衝、その「反復と更新」のなかから一つの「落とし所」として、水路は決まる。神経系でもそうやって、流れるところが流れやすくなり、他が流れにくくなるというわけだ。》
《(…)水路づけの「始点」では、ただまっさらなオープンスペースが与えられただけで、類似の尺度も近接の尺度もまだ定まっていない。つまり、空間が作られていないだけでなく、その中心となる身体自体が決まっていないのだ。》
《(…)重要なのは、(幼児においては)私もない、身体も決まっていない段階で、相互作用自身による「帰納」が生じるというベルクソンの発想だ。もちろん、事後的に登場する外的な観察者にとっては、赤ちゃんの体ははじめから一定の輪郭を備えている。しかし、システム内在的な視点からは、身体の境界は自明なものではない。それは数々の運動的思考錯誤を通じて、場からだんだんと割り出されてくるのである。》
《水路づけの展開される領域が、かっちり決まった下位の運動回路でも、しっかり出来上がった上位の運動回路でもない、「あわい」の領域であることを忘れてはならない。そこでは物質の空間尺度はすでに無効化されているが、知覚の空間尺度はまだできていない。いってみればちょうど空間版の「未完了領域」のようなものが用意されていて、そのなかでは、「位置」同士は、確定した排他的な関係を成さず、ブレやオーバーラップを許すようになっている。世界は、トークンはおろか、定まったタイプすらないところを通過してやってくるのである。》
《ベルクソンはある箇所で、二つの事物の同一性を「重ね合わせ可能(…)」であることによって定義している。「同一性が存在するなら、重ね合わせ可能なイメージが存在するということです」(…)、と。だが、水路づけによる自生的な回路形成が成り立つためには、重ね合わせは、厳密な同一性から程度を許すものへと拡張されなければならない。(…)様々な水の流れは、時空さえ定まらない領域のなかで、お互いに無数の変換を通じて「重ね合わせ」を試行し、そのなかで徐々に、一つの落とし所として、新たな身体を抽出するのである。》
《(…)進化における種の創発は、目的論的なトップダウンでも、一方的なボトムアップでもないプロセスとして描かれる。》
《(…)第一に、ここには、二つの拮抗する力---一方が「上昇」と言われ他方が「下降」と言われる---の「折り合い」が想定されているという点。》
《第二に、そうした模索のなかで、新しい運動階層における相互作用回路の形が、自生的に浮かび上がってくるという点だ。無数の相互作用同士が---(通常の時空表象のもとでは)その都度様々な時点や地点を占めるはずなのにもかかわらず---いわば勝手に「帰納」を重ね、そこから一つの極として身体が炙り出されるに至るのだ。》
《知覚対象だけでなく、中心となる身体自体も、こうした水路づけプロセスが新たに作り出したものだ。》
●物質的な秩序と、生命的なその再構築
《(…)ベルクソンが物質に、自生的な秩序を認めている点は、哲学史からみても興味深い。哲学史の伝統においては、物質・質量(…)は、万物の素材として、それ自体は何者でもない不定形な何かとして表象されてきた。そこに形相(…)がやってきて、姿と秩序をトップダウン的に与える、というシナリオである。これに対して、ベルクソンは、形や秩序なら、運動記憶が反復を通じていわば勝手に作ってくれる。これに対抗する心的・生命的な原理と言うものがあるとすれば、それはむしろ、現状の形や秩序を打倒して、新たな再構築をうながす契機(〈拡張〉)のほうだと考えるのである。》
(つづく)