2022/09/11

昨日からのつづき。引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第五章「空間を書き換える---」より。

純粋知覚論

《こうした水路づけのプロセスを、現存の生物たちの背後に描き出すことで、ベルクソンが示そうとしていたのは何か。それは、身体と環境の一体性、分かち難さであった。そしてこれは、彼の直接実在論、〈遠くの対象をその場所で直接知覚する〉というテーゼ(「純粋知覚論」と呼ばれる)にとって決定的に重要である。》

(物質と記憶』からの引用)知覚は感覚中枢にも運動中枢にも存在していない。知覚は[…]知覚が現れているまさにその場所に存在するのだ。》

(…)運動でできた知覚こそが、空間というもの、もっと言えば「遠く」というもののルーツだからである。脳を持つ生物が、入力刺激から対象との距離を「推測」するようになった。それはいい。だが、もし最初からそうだったなら、そもそも「距離というもの」を誰がどうやって思いついたのだろうか。》

(…)個体レベルでなら、まだ抗弁できるかもしれない。「生まれた時からVR」でも、事情は私たちと変わらない。ちゃんと推測だけで距離も味も世界の側に帰属するようになるのだ---、と。だが、それは途方もない反復を経て進化が作り上げた脳という水路を前提にしている。同じ理屈を、進化レベルでも押し通すことができるだろうか。》

回顧的錯覚

(…)ベルクソンが「回顧的錯覚」と呼んでいるものに触れておこう。(…)私たちの知能は、どんなに新規なことが生じても、それが「元々あった諸理由」によって起こるべくして起こったかのように言いくるめることができる。だが、そうした諸理由の多くは、実は後出しジャンケンでしかない。》

《進化を遡って何かの起源を語ろうとするときにも、それが顔を出す。その一つのバージョンが、私が「器官帰属の誤謬」と呼んでいるものである。》

(『精神のエネルギー』からの引用)人はよく次のように言います。「人間において意識は脳において結ばれている。だから脳を持つ生物に意識を認め、それ以外の生物に意識はないとすべきだ」と。しかし、この論法に欠陥があることはすぐに気づかれます。このやりかたで行ったら、同じようにこう言えるはずです。「人間において消化は胃に結ばれている。だから胃を持つ生物は消化を営み、それ以外の生物は消化を営まない」と。しかし、これは大きな間違いです。なぜなら、消化のためには胃をもつどころか、そもそも器官を持つ必要さえないのです。アメーバはほとんど分化していない原形質のかたまりにすぎませんが、立派に消化を営みます。》

《回顧的錯覚のバリエーションは数多く、他にも、生物進化に目指すべきゴールがあると考える「目的論(…)(…)も、新しさを既存のものの組み合わせに還元する「可能性の錯覚(…)(…)も、同じ理由で批判されている。》

「逃げる」の創発

(…)ひとたび出来上がった段階で見れば、環境も身体も、好きなだけ多くの部分に分解して考えることができる(遠くに物が見えるのは、「眼球」があって、そこに外から光が入り、「網膜」上の「視細胞」を刺激し、云々)。だが、こうした部分同士の因果連鎖の延長線上に、「逃げる」という項は登場しない。出てくるのは、「筋肉の収縮」とか「関節の屈曲」とかである。知覚システムが実現したのは、それじゃない。(…)水路づけは、「逃げる」というスケールの運動単位を開発したのである。そこにはカテゴリー・ミステイク、もっと正確に言えばスケール・ミステイクがある。》

《「遠くにものが見える」とは「眼に入った信号が脳内で処理されてから外界に投射される」ことだ、といった説明が間違っていると言っているのではない。ただ、それは、上位スケールで「出来上がった回路」を前提にした上で、下位スケールで「言い換える」ということをしているにすぎず、そもそもどうして遠くのものが分かるのかの説明を与えるものではない。》

《ちょっと紛らわしいかもしれないが、「遠さのクオリア」のような現象質が先にあって、それがなければ距離見積もり機能は発達しないという議論をしているのではない。今は運動記憶の話である。問題にしているのは、回路における〈知覚と行動、感覚と運動の一体性、不可分性〉であり、より具体的には、遠さを知覚するということは、そこまでどうやって働きかけるかという問いと切り離せないということである。》

(…)そうして出来上がった距離空間は、先立つ途方もない反復の産物である。無数の「その距離の時にこうした」の積み重ねが、いまその距離に何かが見えることを可能にしている。そこには運動記憶固有の時間が存在する。》

時間のタイプ化(運動記憶の時間)

《ここで(…)システムの時間がどういうものであるかを見ておく必要があるだろう。それは、私たちが通常考えるようなプロセス的な、系列的な時間とはまったく異なる独自のロジックでできている。運動記憶は、時間をタイプ化するからである。》

(…)私たちには、もう一方の記憶、つまり拡張による自発的記憶があるので、自分に起きる出来事を時系列に並べることができるのは前章で見た通りである。そのせいで隠れてしまいがちなのだが、運動記憶にそんな時間はない。私たちに備わっている運動記憶は「複数」あり、それらは互いに独立でありうる。つまり、運動記憶Aはそれに「重ね合わせうる」運動だけに関わってそのメカニズムを更新し、運動記憶Bはそれに「重ね合わせうる」運動だけに関わってそのメカニズムを更新する。つまり、運動記憶にとって、時間はタイプごとに切り分けられ、別々にスタックされているのである。》

(…)当該人物(…)の人生のなかでは、自転車も九九も水泳も一つの巨視的な時間のなかに位置づけられる。それだけじゃない。自転車タイプのそれぞれのトークン、つまり一回一回の乗車も、プロセスの時間のなかで別な場所に位置づけられる。》

《この時、自転車の運動記憶(…)にとっての時間はどうなっているのか。一回一回の乗車は隔たっていると先ほど述べたが、それはディーラー(人物の人生)の時間のなかでの話である。そうした「間隙」は、運動記憶にとっては存在しない。変な言い方になるが、個別の運動記憶自身は自発的記憶を持たないからだ。ただ、無数の乗車だけが折り重なれた、「経過」のない時間だけで、運動記憶はできている。ベルクソンが、完成された運動記憶は「時間の外に出る」(…)と述べるのはそのためである。》

(多数の運動記憶のなかから適切なものを選び出す…)選択トリガーを担っているのが、知覚対象のタイプ別弁別の仕組みだった。知覚対象のタイプ化は、運動のほうのタイプ化を鏡のように映し出している。つまりは、重ね合わせることのできる対象だけに運動は発動するように回路がデザインされたのである。(…)知覚と運動の照応関係が、知覚システムという空間設計(ハードウェア)そのものに実装されているというのが、ベルクソンの知覚システム理論のポイントなのである。》

《どこまでが「同じ動作」なのか。その類似の範囲も、運動が決める。正確には、身体と環境との間に張り巡らされた水路の窪みの曲率が決める。》

《もう一点、大事なことは、ここでの体験の現象成分は刈り取られるという点だ(…)。》

(…)運動が使える言語は重ね合わせしかなく、運動は運動としか重ね合わせることができないからである。だから、どれほど豊かな現象成分がそこに含まれていても、それは運動記憶に関与しない。運動記憶は、体験が含む運動成分によってしかトリガーされないし、また体験に対して運動しか引き起こすことができない。(…)自転車の運動記憶と九九の運動記憶も互いに隔絶されている。》

(…)一つの運動記憶は、これらの運動切片によって、そしてこれらの運動切片のみによって更新され完成される。》

システム(運動記憶)は過去を実演する

(…)運動記憶は、現在の運動と過去の諸運動切片を識別しないし、過去の運動切片同士のトークン的な識別もしない。徹頭徹尾タイプ的だ。それでも、否だからこそ、それは過去なしには成り立たず、タイプ的に反復された無数の過去なしには発動しない。こうした特殊な過去との関りを、ベルクソンは非常に印象深い表現で特徴づけている。》

《曰く「習慣は過去をわれわれに表象させるのではなく、過去を実演する」(…)。ここで「過去を表象する(…)」というのは、(…)エピソード記憶のことを指している。運動記憶には、確かに、自力でこのような過去を表象する力はない。しかし、運動はその発動のただなかにおいて、パフォーマティブに過去を示す。》

(…)自転車の運転技能を正しく「記憶」だと私たちが思えるのは、もう一つの記憶、つまり自発的記憶のおかげで練習の日々を想起できるからである。》

《「ジガバチは卵を植え付けるアオムシを殺さずに麻痺させるために九つの中枢神経を続け様に九回刺す」(…)。これをジガバチは(…)自分の脳内回路を使って導出したわけではない。生まれて初めて出くわしたアオムシに対して、その急所をただ「看てとる」のである。(…)ここになにか神秘的直観のようなものが働いているのではない。それは水路の仕業だからである。そして水路は、過去の膨大な反復(水路づけ)を、今実演してみせているだけだからである。》

(…)それは、運動と貼り付いて引き剝がすことのできないタイプの知覚であり、(直列の)電気回路を電気が流れるといってもそれを途中で分割することができないのと同じように、運動から切り離しては成り立たない、高度に機能的ではあるが現象的にはまるで盲目的な知覚---パフォーマティブな「見る」---なのである。》

非プロセス的な知覚(システムの不可分性)

(…)タイプ化された「システムの時間」には、通常の意味での諸時点の区別というものがない。知覚-行動回路を作る複数ステップの運動段階はあるが、それらは不可分である。ここでも運動階層のスケール・ミステイクに注意である。生物の知覚システムは、相対的に上位の運動階層に位置している。それを下位スケールの諸部分に分割することは可能だが---そしてお馴染みのプロセス的時間で記述することは可能だが---、それはシステムを外から理解する私たちが持ち込んだ時間である。知覚システムを構成する運動自体の階層においては、あるのは部分に分けることのできない一体となった時間だけだ。「可能性」をプロセス的に「鏡映する」という知覚システムの一見不可解な挙動は、これによって実現されているのである(…)。》

《ここから、距離はあるが分割されない空間というものが導出される。空間的拡がりを持ちながら「不可分」とは、近代的な空間概念に習熟した人の耳にはほとんど撞着語法に聞こえるはずだ。しかし、「具体的で分割不可能な延長と、その下に張られる分割可能な空間の混同」(…)に対する批判は、彼の物質論の主要なテーゼである。地図と土地の混同だ。(…)それが分けられないのは、その背後に折り畳まれた時間の厚みゆえである。》

(…)私たちにとっての一瞬、赤色の瞬きが見えた時、それを外から測れば二〇ミリ秒の幅がある。だから、外から眺めている人がこれを分割しようと思えば好きにできる。だが、当のシステム自身にとっては、これはもう分割することはできない。(同じではないが)似たような意味で、出来上がった構造体としての知覚システムを、外から眺めて分割することはいくらでもできる。だが、それは階層を降りてしまうことなのだ。当のシステム自身にとっては、知覚行動回路は「一体成形」で、壊すことなしに分割することはできない。そうしたシステムで何かを知覚するとは、雑な比喩を用いることを許してもらえれれば、自分の身体部位の痛みを観察によらず直接察知することに比せられる何かである。現に、ベルクソンはある箇所で、環境に拡がる知覚システムのことを、「広大な身体(…)(…)と呼びかえている。》