2022/08/27

●昨日からのつづき。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第三章「過去を知る」より、引用、メモ。

●「人格(人格質)」という凝縮(階層3)

《(…)ベルクソンは、最初期から一貫して、私たちの心・自我・人格が、過去の経験全体からなると考えている。》

《(…)ここで言う「過去」が指しているのは、物理的痕跡ではなく、クオリアやイメージ成分を含んだ包括的な現象体験の数々である。そして、これら無数の現象体験たちはバラバラのまま寄せ集められているのではなく、互いに「相互浸透」し「凝縮」されて、一つの「渾然とした集塊(…)」(…)のうちに溶け込んでいる。》

《私たちの現在の窓は有限で、体験は次々と流れの現場から溢れていく。一つの流れの体験は順序を実現するのだが、せっかくの「実現された順序構造」も、人格という塊のなかに潰れて溶け込んでしまう。だが凝縮は、たんに構造を解体して消し去るということではない。「表現される質」へと変換することで維持する。そしてそれこそが、私たちの心という「質的多様体」を形作るのである。》

《私たちの人格は、大量の体験をただ見境なく融合させた闇鍋のようなものではない。要素を融合しつつも、量的でない識別を維持する。》

《(…)私たちは便宜のために、人にレッテルを貼って大雑把に分類することもある。だが、人格質ということで問題にしているのは、そうしたカテゴリーやラベルのことではなく、その人自身が内的に感じ取っている、「その人であるとはどのようなことか」という全体的な質感、つまりその人であることの全体的なクオリアのことである。》

《私たちは誰も、そのサンプルを一つしか知らない。》

《感覚質や体験質と違って、人格質は、人生という航路の背景に緩やかに、ときに転調しながらも流れ続けるアンビエントノイズのようなものだ。サールはこれに近いものを存在の気分(mood)や趣き(flavor)と呼んでいる。ベルクソン流には意識のトーン(…)である。それは特定の志向性を持たず、「その人を生きている」という漠然とした佇まいのようなものでしかないだろう。》

《体験質が具材なら、人格質は、言ってみれば一つの鍋で年齢分の歳月煮込み続けたスープである。》

《(…)私たちの体験にはイメージの形で記憶全体のなかから「有用な部分」が組み込まれる。記憶からの影響という観点で言えばこちらの方が目立つし、実用的だ。だが、今から注意を喚起しておきたいのはむしろ直近の実用に資するのでもない、圧倒的多数の、物言わぬ記憶たちのことである。それらは、互いに溶け合って中和(…)しあいながらも、バックグラウンド的な質として、目立たず、しかし絶え間なく体験の素地一面を染め抜いている。》

●時間的に「開いた」システム

《(…)幅ゼロの瞬時が実在しないとすれば、現在には必ず幅がある。だから、〈あるスケールにとってすでに過去となったものが、別なスケールではまだ現在である〉ということが起こる。》

《(…)階層2の流れを体験している私にとっては、昨日や一〇年前はとっくの過去である。しかし、MTS解釈において、「絶対的な意味での過去」なるものは存在しない。そして現に、「人格としての私」にとっては、全ての体験はまだ終わっておらず、なお「周期一つ分」の途上にある。つまり、再編されうる。この階層では、「過去のイマージュの総体がわれわれにはまだ現在である(…)」(…)。》

《(…)システムが時間的に「開いた」ものになることだ。》

《(…)単純な生物であれば、入ってくる感覚刺激も単純でそれに決まりきった、応答をして済ます。飛び回るものがあればカエルは即座に舌を伸ばす。この事態を、感覚と運動のカップリングが「時間的に閉じている」と表現することにしよう。》

《(…)システムが階層を増やし「厚み」を増していくに応じて、今見たり聞いたりしていることすべてに対応するリアクションを、その場で取る(取り尽くす)ことができなくなる。こうしてオーバーフローする高次の感覚は、現在を超えて持ち越されることになる。》

《学んだばかりの知識、腑に落ちなかった誰かの言葉、気にも止めなかった景色……、その時点ではスルーされたかに見える無言の経験たちが、時を経ていつか未来の自分に語りかける。そうした未来への開けのことを、私たちは「記憶」と呼んでいないだろうか。そして、同じことは過去へも成り立つ。私たちが何か思い立って行動を起こすとき、それはその直近の感覚刺激によって全面的に説明されるようなものではない。私が怒っているのはさっきの言葉のだけのせいじゃない。私が旅立つのは、昨日目にした広告のためだけじゃない、遠く近く、様々な過去に自分が受け取った入力たちが、その時には応じてあげられなかった問いたちが、はるばる迂回を重ねて今の決意に声を連ねているのである。》

《(…)もし無数の「やりかけ」たちがなければ、時間は階層2に縮退してしまって、現在を超えた人格としての人生は初めから訪れないからである。「やりかけ」は人生にとってなくてもよい付随品ではない。その余剰こそが心を作るからである。》

●時間を空間化(線状にして計測可能に)するとは?

《(…)相互浸透のかかった持続を、ビーズのネックレスのように離散的な瞬間が並んだ「順序」系列に仕立てるためには、諸項を外科的に切り離す必要がある。この相互浸透は、そもそも流れが流れとして成立するために不可欠な条件だったのに、肝心のその効果を、各瞬間を記号で置き換えることによって解除してしまうわけだ。この操作によって、せっかく創発された感覚質や流れはキャンセルしてしまう。》

●想起の時間内定位

《(…)想起の場面に目を移し、出来事の時間的位置を割り出す作業がどのように説明されているかを見てみよう。この作業のことを「時間内定位(…)」と言う。記憶を系列の形で取り出せるのも、ひいては空間化できるのも、この操作が成功するおかげだ。この働きは、ベルクソンによって明確に(凝縮と逆行する)「膨張」の働きとして記述されている。》

《(…)ベルクソンが描き出そうとしているプロセスは、記憶全体からなる多様体を、徐々にその倍率(解像度)を上げながら、必要な領域を焦点化できるよう随時回転させていくという操作である(並進と回転、詳しくは6章)。グーグルアースというアプりを開いて、地球全体が俯瞰されてる状態から、福岡市を見つけ出す作業を考えてみてほしい。宇宙空間に地球が浮かんでいるくらいの倍率では福岡市は潰れてしまって、どこにあるか分からない。回転と拡大を繰り返して初めて、ターゲットの位置と形を探り当てることができるわけである。》

《だが問題は残る。(…)なんの当てもなく地球儀を回して、たまたま福岡市が見つかる確率は、限りなく低い。つまり、探索すべき方向に見当がついているはずである。》

ベルクソンの答えは、「記憶が知っている」である。》

《(…)一般には、何か出来事自体が自分の位置を告げ知らせてくれるとでもいうような、そういう知り方を私たちはしていないだろうか。「あの頃性」とでも呼びたくなる何かが、出来事を覆っている。》

《記憶が保持するのは、出来事の内容だけではない。その出来事を包む前後関係、人生全体のなかで占める位置、そうした、「諸記憶間の関係」に由来する情報も、色合い・ニュアンスという質表現に変換して、関係「項」である記憶の一つ一つが保持している。実際、想起イメージは、「過去のすべての出来事を、輪郭と色彩、時間上の場所と合わせて描き出す」(…)と言われているのである。》

《(ベルクソン『試論』からの引用)…なるほど、時間が一度流れ去ったなら、我々はその継起的諸瞬間を互いに外在的なものとして表象し、かくして空間を横切る一本の線の様に思い描く権利を有する。けれども、この線によって表徴されるのが流れつつある時間ではなく、流れ去った時間であることに変わりはないだろう。》

《(…)保存そのものは凝縮によって系列的でない仕方で実装されており、それを記号によって系列化することの代償として現象質の側面がキャンセルされてしまう。それが「空間化された時間」(計測の時間)ということだ。》

●枠(地)としての人格質が体験の一回性を担保する

《私たちにトークン的な出来事の再生、つまりエピソード記憶が可能なのはなぜか。それは、出来事の各々が、その内容だけでなく、相互に取り結ぶ時間関係についても、質的に識別できるからである。各記憶が帯びる時間的色合いのことを、ベルクソンは「日付」と呼んでいる。そして、「生涯の出来事やそのディテールは、本性上、日付を有し、したがって二度と繰り返されはしない」(…)。(…)同じテーマパークに何度遊びに行っても、同じお店で何度料理を食べても、それらの体験はすべてトークン的に別物なのである。そうした、オリジナルの体験の違いを引き起こしているのは何か。》

《もうお分かりだろう。体験のバックグラウンドを埋めている人格質、つまり私自身なのである。もう一度引用しよう。「人格は変化しながら、たとえある状態が表面で同一であるとしても、その状態が深みで反復されるのを妨げる」(…)。たとえばVRなどを用いて完全に同一な感覚入力を与えたとしても、体験は同じにならない。「なぜなら、私はそのあいだに生きてきたからだ。(…)」(…)。人生に加わる新たな体験のせいで、「枠」としての私は変化し、そのようなものとして再帰的に体験質に浸透する。こうして人格質は、体験を他のあらゆる体験から常に質的に識別する。》

《その一方で人格質のほうも、階層2の体験質同士がとりもつ「実現された関係構造」を取り込んでいる。ちょうど流れの配列構造を流れの質が表現し、体験質に繰り込んだように、だ。こうして、体験質から出発しても、人格質から出発しても、私たちは順序構造を復元するための手がかりを手にできるのである。》

●「質」の内容成分(イメージ)とニュアンス成分(時間的色合い)という二つのレイヤー

《階層2以降の凝縮がもたらす質次元には、二種類の成分が区別される。(…)第一に、上位階層は、素材となった一群の質的要素「内容」として含んでいる(内容成分)。他方で、凝縮は、諸要素間の関係構造を解体する代わりに、それを質的識別に変換する。そのため第二に、上位階層は、これら関係構造を「色合いやニュアンス」に繰り込み、「内容」を副次的に修飾する質次元として保持する(ニュアンス成分=時間的色合い)。本書の解釈では、想起プロセスのただなかにおいて、前者の質成分は「照合」に用いられ、後者の質成分は「ナビゲーション」に用いられる。》

《それら(夢想、反実仮想、未来予測など)と異なり、ただエピソード記憶だけが、その想起のプロセスのただなかで、私たちに「過去性」というものを教えてくれる。それがなければ、そもそも私たちは時間という概念に出会えなかった、そういう何かである。》

《(内容成分について)非想起的イメージ((夢想、反実仮想、未来予測など)能力と想起の違いは何か。(…)プロセスの最終段階で「照合」ステップがあるかどうかだろう。想起の場合には、試作してみた想起イメージを見て、自ら、「いや、こうじゃなかった」「もうちょっとこうだったか」とダメ出しをすることができる。(…)「他者による」チェックや、「他の記憶との整合性に基づく」チェックの話ではない。当該想起イメージ単独への違和感に基づく、自分自身のなかでのきわめて原初的な照合ステップである。このとき、教師情報として用いられているのが「純粋記憶」つまり体験質である。ただし体験質自体が、オリジナル体験の細部を展開してくれるわけではない。あくまで「こんな感じだった」という全体的な感触・質感を与えてくれるだけである。》

《(ニュアンス成分について)私たちは、エピソードから始めても、過去全般つまり人格質から始めても、目的の記憶に向かって近づいていくことが出来る。それは、それらに色合い・ニュアンスという副次的修飾の形で埋め込まれた「時期の徴し」と「方位付け」のおかげで、広大な記憶領域のナビゲーションが可能になっているからである。》

《私たちの心は文字通り、本物の過去で出来ている。(…)想起とは、このように過去自身の助けを借りて、この凝縮された膨大な時間リソースのなかをナビゲートし、特定の体験質に辿り着くために生命が一部の生物において開発した、稀有なスキルなのである。》