2019-08-09

●『新記号論』の註で紹介されていて気になって読み始めた『眠りと文学』(根本美作子)の「プルースト」の章におもしろいことが書いてあった。しかし、以下に書くことは、この本で読んだことと、読んで自分で勝手に考えたこととが混じっているので、この本(この章)の正確な要約というわけではないです。

プルースト失われた時を求めて』の冒頭で語り手である「私」は、一見したところ寝室のなかで過去を回想しているかのようにみえる。しかしここで「私」が回想するのは、「不特定の過去」における入眠時の回想である。「私」は、不特定の過去の回想を、今、回想している。しかも「私」は、過去のいくつもの入眠時(というか、一度入眠して覚醒時の混乱だが)において生じた、いくつもの回想について回想していることになる。《長い間、私は早くから寝た。》この「長い間」という幅をもつ時間のうちに何度も何度も反復した回想を、その回想がいつ起きたとも特定できないまま、さらに、いつと特定できない今において、改めて回想している。

《「私」はなるほどこれから限定的な物語を語るかもしれない。しかしその物語は基本的にこうして「私」がある時期、早くから寝ながら、途中で目覚め、その目覚めの混乱のなかで思い出した〈こと〉だ。ところが、思い出した「私」は物語る「私」と時間軸の上で隔たっている。夢うつつに過去の寝室を思い出す習慣のあった「私」(=「私〈1〉」)を、〈いま〉の「私」(=「私〈2〉」)が思い出し、物語るのだ。まるで「私〈2〉」はもう眠る必要すらないようだ。》

思い出が思い出されるという複雑な形式で書かれるこの小説で、最初に「思い出」がそれ自体として焦点化される(つまり、「私〈2〉」から「私〈1〉」へと語りの焦点が移る)のは、語り手のコンブレーでの幼少時代の「不眠」体験だ。しかしこの場面で「私」が思い出せるのは、寝室での心配事(スワンの訪れを告げる鈴の音・母がキスをしにきてくれるのかという不安)のみであり、コンブレーにかんするそれ以外のことは自分の中からすっかり失われ、憶えていないと語るのだ。その後再び召還された「私〈2〉」は次のように語る。《まるでコンブレーが狭い階段に結ばれた二つの階だけからなり、そこではいつも夜の七時でしかなかったかのように。》

長い間、「私」は、コンプレーにかんしては「おやすみの儀式」のことしか思い出せなかった。しかしこの後に、有名なマドレーヌ体験が描かれる。ある冬の日に母のいれてくれた紅茶にマドレーヌを漬け、それを機械的に口に運んだ瞬間に、とてつもない悦びが「私」を襲う。《そして突然思い出がその姿を現した》。レオニー叔母さんのマドレーヌの味、レオニー叔母さんの家、その脇の両親のための家、そしてコンブレーの町全体が、記憶の底からおどりだす。この体験以来、《私はしばしば朝までコンブレー時代を思い描いて過ごすのだった》と、「私〈2〉」の位置から語られる。

つまり、(1)ある時期まで、コンブレーについては幼少時の寝室での心配事以外のことはまったく思い出せなかった、が、(2)マドレーヌ体験の後、町全体までを詳細に思い出すことができるようになり、眠れない夜にはしばしば朝までコンブレー時代を思い描いて過ごすことになった。一見すると何の不思議もないように思える。しかしこの点について根本美作子は次のように書いている。

《これまでのところでは、夜中に目覚めてコンブレーのおやすみの儀式を思い出していた「私」と、その「私」をさらに回想する「私」の二層から時間は成り立っていたが、儀式だけを思い出していた「私」より数年あとに、マドレーヌ体験をつうじ無意志的記憶に見舞われる「私」という中間的な時間層が入り込んでくる。そして、一層面白いことに、いつの間にかこの三番目の「私」とその記憶が最初の「私」に統合されているのだ。これまでの時間軸で読めばありえないことかが、この段落では起こっていることになる。》

《ここにきて私たちは、冒頭部分で回想された夢うつつの「私」を位置づけることがいかに困難であるのかを思い知らされる。この不特定の過去はまるで伸縮自在であるようだ。》

個々の思い出を思い出している「私〈1〉」について思い出している「私〈2〉」は、自然に考えるならばあらゆる「私〈1〉」よりも時間(時系列)的には後に位置していると考えられる。ならば、「私〈2〉」は、冒頭の語りだしの部分において既に「マドレーヌ体験」より後にいることになるはずだろう。にもかかわらず、不定時にいる「私〈2〉」は---マドレーヌ体験が語られるより前の部分では---未だ「マドレーヌ体験」などないかのように、コンブレーの記憶については幼少時の寝室以外はすべてが失われているかのように、語っていたではないか、と。そして、「マドレーヌ体験」についての回想(「私〈1〉」)を回想(「私〈2〉」)した後には、「私〈2〉」があたかもはじめから「マドレーヌ体験」の後において語っていたかのように語っている、と。

だとすれば、「私〈2〉」が語っている位置は、「マドレーヌ体験」よりも前という位置であると同時に、「マドレーヌ体験」後という位置でもありえるような、両者が排他的ではなく両立する位置としての「現在」ということになってしまう。

たとえば、出来事が、12345という順番に起こり、その次の「6」の位置が現在で、そこから過去を俯瞰して語るというのではなく、1→2→3→4→x、でもあり、12x、でもあり、123789x、でもあるという風に、その都度どの位置でもとれると同時に、そこが常に現在であり、かつ、それらどの位置へと移動しても連続的であるようなxとして、「私〈2〉」という視点があると考えられる。

あるいは、もっと単純化すれば、「○○以降」というような言い方を使って考えることもできる。それ以前には戻ることの出来ないような、何か決定的な出来事が起こってしまう、あるいは、それを知らなかった頃には戻れないような、何か決定的なことを知ってしまう、とする。不可逆的な出来事としての「○○」。しかしその時、○○以前はなくなってしまうのか。あるいは、○○以前であることと○○以降であることとは排他的であるのか。ここで、時に○○以前であり、時に ○○以降でもある、どちらであっても「現在」であり得る「私」の位置xがあり得るとするならば、現在地点xからみて、○○以前と○○以降は排他的ではなく共存し得る。

「マドレーヌ体験」によって、コンブレーの町について詳細に思い出し、その後しばしばコンブレーの思い出とともに夜を過ごすようになった「私」と、コンブレーのついては「夜の七時の寝室」しか憶えていない、「マドレーヌ体験」以前の状態の「私」は、 「私〈2〉」という不定時の現在に包摂され、どちらもそのままの形で保存されている、と考えることができる。

(123→「マドレーヌ」→456、という出来事の流れがあったとして、 「私〈2〉」が、たとえば「3」の位置にいて回想している「私〈1〉」を思い出す時、「私〈2〉」の視点はマドレーヌ以前の「私=現在」となり、「5」の位置にいて回想している「私〈1〉」を思い出す時、「私〈2〉」の視点もまたマドレーヌ以降の「私=現在」となる、と。)

このような不定な現在時としての視点xは、実は突飛なものでも特異なものでもないのではないか。たとえば、それこそ入眠時、夢のなかの視点は、このようなものとしてあるのではないか。我々のなかには、○○以降であっても○○以前である状態が保存されている。あるいは、○○以前の経験として構成し直され得る再構成の規制が働いている。そしてそのような(普段は抑圧されている)規制が、夢という退行した場において、不定な現在時としての視点xという形で顕在化するのではないかと考えることもできる。

(とはいえ、この何処にも定位しない不定な視点xにも、「私の有限性」という限定がある。私という視点は、なくなってしまうことがある。『失われた時を求めて』の語りの持続も、プルーストの死によって途切れる。)