2021-06-03

●U-NEXTで『佐々木、イン、マイマイン』(内山拓也)を観た。良かった。観はじめた当初は、正直これはキツいかも、と思った。ホモソ的な男の子ノリで、パッとしない現在と、輝かしかった高校の日々が対比され、そこに佐々木という、はやし立てるとすぐ全裸になるようなユニークな奴と、仲間たちがいた、みたいな映画だとしたら、最後まで観ることすら厳しいのではないかと危惧した。しかし、そういう映画ではなかった。いや、かなりの程度そういう映画かもしれないが、しかし重要なところで、そうではなかった。そういう危うさまで含めて、とても面白かった。そういう「良くない」ところに正面から突っ込んでいるのに、なぜかそうなっていないという不思議さが、この映画のユニークさではないか。

(観ている途中で、あ、これは『岡崎に捧ぐ』(山本さほ)なのか、だから嫌ではないのか、と思った。)

(とはいえ、ホモソ的なものに対する嫌悪が強い人なら、最初の20から30分くらいで観るのをやめてしまうかもしれない。ぼくも、主人公が同級生とたまたま再会して居酒屋に行き、そこで関係ない客とケンカを始めて、そのケンカによって気まずかった同級生との関係が良好になる、という場面で、これを観続けるのきっついわ、と思った。)

映画の冒頭で、無人の佐々木の部屋、喪服を着て葬式に向かう主人公、佐々木の部屋で佇む(最期の)佐々木、そして、葬式後に舞台に上がる主人公が示されて、そこから、佐々木コールをうけて佐々木が全裸になって盛り上がっている高校の教室へ繋がる(背景には、主人公が舞台上で喋るセリフが流れている)。そして、今、まさに舞台に上がろうとする主人公の背中のカットにタイトルがでる。この映画で示される(時系列的に)最も新しい時間が、「舞台に上がろうとする主人公」なので、この映画全体が回想によって成り立っているということが冒頭に示される。すべてがこの「舞台に上がろうとする時間」に集約される、と。この冒頭がまず「嫌な感じ」で、ああ、これからノスタルジックに過去が語られるのか、そしてそのノスタルジーの中心に「教室で自ら全裸になるような男」がいるのか、と、少しうんざりしてしまう。

で、まさにそういう映画なのだけど、そういう映画ではない。この映画の面白いところは、語りの形式としては、回想からさらなる回想へ遡行するという構造になっているのだが、しかし観ていると、(現在時からの)回想ではなく複数の時間が同時に自律的に存在しているという感じになっている。映画の始めの方で「佐々木」という人物が伝説の人物であるかのように語られている部分では、今にも「喪失してしまった過去へのノスタルジー」が発動しそうな嫌な感じがあるのだが、実際に「佐々木がいる時間」が現われると、その感じが少しずつ変わっていく。

ここで重要なのは、佐々木が、語られる人物なのではなく、佐々木自身として存在していること(実際に画面に現われる、という意味で)。しかしそれでも、その佐々木は、友人(主人公)の視点によって現われていること(二人の関係の固有性が刻まれていること)。この二点ではないか。現在の主人公が高校時代の佐々木を見ている(これだとノスタルジーになる)のではなく、あくまで、高校時代の主人公が高校時代の佐々木を見ている。そして、「高校時代の主人公が高校時代の佐々木を見ている」という時間が、そのまま現在の主人公のなかに生きている。もっと言えば、現在の主人公と高校時代の佐々木との関係が描かれるのではなく、「現在の主人公」と「高校時代の主人公と佐々木の関係」の関係が、この映画の構造によって浮かび上がる。

この映画が『岡崎に捧ぐ』を想い起こさせるのは、まずは佐々木が(岡崎と同様に)ネグレクトされた子供であるということからくるのだが、それだけでなく、ここで描かれる佐々木が、友人の視点を通して現われる人物であり、主人公と佐々木との関係こそが描かれていること、そしてその佐々木が、伝説の人物としてでも、特別にユニークな人物としてでもなく、たんに一人の友人としての固有性において捉えられているという点だと思う。こんなに面白い(変な、困った)奴がいた、ではなく、たんに、こんな奴がいた、と。こんな奴がいた、こんな奴を見ているオレがいた、「こんな奴を見ているオレ」は今のオレのなかにもある。このような構造が、「あの変な奴がいたあの頃」というノスタルジーの発動を抑制し、それによって佐々木という人物を魅力的にしているのだと思う(ネタとして面白い奴ではなく、たんに人としてリアルである人物、という意味で)。

とはいえこの映画は、「佐々木が既に死んでいる」こと、つまり、佐々木の生の時間が完結していて、これ以上の新たな展開がなく、主人公が佐々木の存在を遡行的に掴むことが出来る位置にいることで成立しているという側面もあるだろうとは思う(その点では『岡崎に捧ぐ』とは異なる)。

(この映画が、ノスタルジックになりがちな語りの構造をもちながら、それを逃れ得ているのは、実在した人物がモデルとなっていること、その人物が演じている俳優の友人という関係にあること、という理由もあるのではないか。これは『岡崎に捧ぐ』と共通する。)