2022/10/20

●機会があって、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』の黒川幸則監督の新作『にわのすなば』(12月公開)を公開前に観せていただいた。

natalie.mu

とても面白かったので色々書きたいのだが、公開前にあまりネタバレしない方がいいのではないかという気もする。というか、「お話」としては、バイトの面接で知らない街を訪れた女性が、帰りそびれて街をうろうろ歩くうちに、街のさまざまな人たちに出会うというだけなので、ネタバレも何もないような映画とも言えるが、実はけっこう驚きの展開があって(「驚きの展開」とは言えないかもしれないが、ぼくは驚いた)、それはできれば事前には知らない方がいいのかなあとも思うのだった。

「驚き」の部分にはなるべく触れないように、抽象的に書いてみる(「ぼくが驚いた」というだけで、それは別に「驚かそうとしている」のではないかもしれないが)。この映画は、まず(1)主人公(女性)が人物A(男性)と街を歩くが、途中でAに用事が出来て、主人公が一人になる。(2)一人になった主人公は、偶然の連鎖で人物B(女性)と出会う。(3)主人公は人物Bと、前日Aと歩いたほぼ同じ道をその翌日に辿り、さらにそれ以外の場所にも行く。そして、(4)その日のうちに、主人公と人物A、Bの三人が偶然に集うことになる(前日にAと訪れた工場に、翌日にBと行ったら、Aがいた)。展開の骨組みはこんな感じで、大雑把に四つに分けられると思う。ここで(2)のところと(4)のところに、ぼくにとっての「驚き」があった。

(展開としては、前日にAと歩いた同じ道を、翌日にBと再び辿るという反復が重要だと思う。このシンプルな反復に、この映画の多くが賭けられているように思う。)

物語的には、実はAとBには過去に因縁があったという「裏地」がある。おそらくAは、主人公と仲良くなりたくて、自分の地元のバイトを紹介した。しかし、今夜は飲もうという空気になったのに、急な用事のため主人公を放置する結果となり、仲良くなり損ねる。そしてAには、Bと仲良くなれるきっかけがあったにも関わらず、それに失敗しているという過去(高校時代)がある。つまり、Aが、主人公とBとのどちらとも仲良くなりそびれ、そのかわりに、主人公とBとの間にある特権的な時間の共有が生じる(二人はAを嫌っているのではなく、むしろAへの共通した好意が二人を結びつける媒介になっているにも関わらず…)。それがこの映画の「構図」であろう。

このような構図にこの映画の魅力が還元されるわけではないが、主人公(サカグチ)、A(キタガワ)、B(ヨシノさん)という三人の関係がこの映画の中心にあることは確かだろう。十函(とばこ)という架空の街において、サカグチは余所者であるが、キタガワとヨシノさんにとってそこは地元である。しかし二人は決して地元に馴染んではいない、地元内余所者のような存在で、むしろサカグチよりもより強く余所者的であるのではないか。

キタガワは「こっちに友達はいない」と言うし、ヨシノさんは、カノウという友人から「あまり心配かけるなよ」みたいなことを言われ、問題児的存在であることが匂わされる。そしてヨシノさんは十函愛をうたう地元誌「とばっこ」を強く嫌っているようだ。その共通した余所者性が、高校時代のキタガワとヨシノさんを近づけたのだろう。

十函という土地は、サカグチにとってはワンダーランドでも、キタガワやヨシノさんにとっては、そこで地元内余所者として暮らし続ける場所である。だからこそキタガワは外からくるサカグチを必要とした(仕事の同僚になって欲しかった)のだし、高校時代のヨシノさんは、自分と同様に浮いているキタガワと心を通わせることを必要とした。しかしその想いはどちらも届かない(ヨシノ→キタガワに関しては「届いていた」ことを知らない、キタガワもヨシノさんにそれを知らせられない)。ヨシノさんはサカグチと特別な一夜を過ごす(酔った二人はこの街には存在しない海を目指す)が、夜が開ければ余所者のサカグチは帰っていき、ヨシノさんは地元に一人で残される。

(特別な一夜が明けた後、スンとしているヨシノさん、二日酔いのサカグチ、酔い潰れて路上で眠る―幸福な夢の中にいる?―キタガワと、昨夜のありようとの「違い」がけっこう残酷に示される。)

映画の表側は、サカグチによるワンダーランドの冒険だが、同時に、ワンダーランドの住人たちは皆、ワンダーランドから浮いていることが強く匂わされる(マスコさんを除いて、おそらく、ことあるごとに「地元愛」を口にするタノさんでさえ)。浮いていることにより、逆説的に地元と結びついている、というべきか(アワズさんは「復讐のために十函へ戻った」と言う)。サカグチから地元の魅力を問われたキタガワが「スタンド・アローン・コンプレックス」と答えるのは、彼がはじめから「浮いた人」しか見ていないからではないか。ヨシノさんが、「十函では昔、人よりもスケボーの方が数が多い時期があった」と言う時、彼女が見ているのは現にここにあるものとは「別の十函」なのだ。

この映画の面白さの一つに、「地元」をそのように描いているところがあると思う。

●ヨシノさんは、「とばっこ」を編集するタノさんを嫌っているが、二人にはどちらも十函の「地図」を描くという共通点がある。対してキタガワは、地図を描かないし、地図が読めない(地元なのに道に迷う)。ここにも、「地元」に対する捉え方の違いが現れている(キタガワは地元を「心象風景」だと言う)。タノさんの地図にはイベント(フェス)やリサーチ対象が描きこまれるが、ヨシノさんの地図はただ空間的な関係だけが描きこまれる。

(タノさんの地図には水門がなく、その代わりなのか、フェス会場の工場へ至る「階段」が描きこまれている。)