2024-09-26

⚫︎(悔しさを忘れないための)メモとして、昨日に続き、『海辺へ行く道』シリーズについて自分が書いた論考「突端・行き止まり・迷路・穴・模造/『海辺へ行く道』シリーズの岬的空間性」(『半島論』所収)の一部を引用する。模造品であることの真正性について。

 

六 奏介とテルオ、表と裏

このシリーズの主人公は奏介という中学生ですが、裏の主人公として奏介の先輩に当たるテルオという存在がいます。裏と表を併せて、二人がそろってはじめてこの作品で重要な主題のうちの一つが成立するのです。二人は、人工的な模型や模造(まがいもの)をつくる能力に長けているという点で結ばれています。ただ、奏介には、モノをつくることのよろこびという以上の欲望も目的もありません。目的を持たないことによって、様々な人や出来事の媒介となり得て、表の主人公であり得るのです。しかし、テルオには悪意があり、復讐という明確な目的があります。テルオは執拗な執念を抱きつづけて復讐を慣行しようとします。では、テルオの復讐とは何に対する復讐なのでしょうか。それは人工的な模造(似ているもの、まがいもの)の価値を認めず、その価値を貶めようとする者への復讐だと言えるでしょう。

裏の主人公とは言っても、テルオは、シリーズの丁度折り返しの辺りに位置する「あるアーティストの帰郷」ではじめて登場し、そろそろ終盤に差し掛かる「ロニー・下村の埋葬」で再登場するだけで、二つのエピソードにしか登場しません。

「あるアーティストの帰郷」でテルオは、西條さんという、声を出すことのできない寝たきりのお婆さんの家へ学校の課題であるボランティア活動として訪れます。テルオは、読唇術ができるので、声の出せないお婆さんとも普通に会話することができます。筆談のわずらわしさにうんざりしていた西條さんは、テルオに対しては言いたいことを自在に言えるので喜びます。そしてテルオは、学校の課題の範疇を超えて、頻繁に西條さんの家を訪ねるようになります。二人きりでの会話のなかで西條さんは、亡くなったお爺さん(夫)が夢に出てきて、お前の誕生日に少しだけ会いに行くよと言ったという話をします。親しくなることで鍵の隠し場所なども知っていたテルオは、お爺さんの写真と衣服を拝借し、自らに特殊メイクを施してお爺さんそっくりの姿になり(奏介も手伝いました)、誕生日に西條さん家に、チラッと顔だけを見せに行くことにしました。その時、西條さんは、「今日はありがとう、次は私が会いにいくわね」と唇の形だけで言い、次の日には亡くなっていました。

ただしこの時にテルオは、母親を訪ねてきた西條さんの娘と偶然にかち合ってしまい、テルオの行動が問題となります。娘夫婦は、写真と衣服だけでなく、現金もなくなっていたと主張し、テルオは高校を退学となり、東京へ転居して保護観察の下、美大受験のためにアトリエに通いつつ、大検を目指すことになります。この事件が一年前の話で、そのテルオが正月を過ごすためにA市にある実家に帰ってきた、というのが「あるアーティストの帰郷」の物語です。

西條さんの娘夫婦にとってテルオの行為は度を越した悪ふざけですが、テルオとっては(というか、この作品においては)、西條さんがお爺さんにそっくりのまがいものに会うことと、本当に死んだお爺さんに会ったという事の間に、差異はほとんどないと言えるでしょう。「どこかに穴でもできたのかい」のケンが、「絵に描かれた穴」の底に本当に消えてしまったのと同様に、お爺さんのまがいものはテルオではなくお爺さんであり、亡くなったお爺さんが本当に西條さんの元を訪ねたのです。絵に描かれた餅こそが「餅」なのです。そして、その絵に描かれた餅こそが生と死の境を跨ぐ媒介です。

(帰省したテルオは娘夫婦に復讐するのですが、その内容はここには書かないことにします。)

「ロニー・下村の埋葬」でテルオは、アトリエの女性の先輩から、九二歳で亡くなったお爺さんが生きていた場合の現在の年齢(九八歳)に見えるように、自分に特殊メイクを施してほしいと頼まれます。先輩はテルオに嘘をついていて、この特殊メイクは年金の不正受給をつづけるために、区の職員を騙すのが目的で行われます。しかしこの場合の死と生の間を跨ぐ行為の目的は、あきらかに西條さんの場合とは異なります。西條さんは本当にお爺さんと会ったと言えますが、区の職員はただ偽物に騙されているだけです。これはむしろ、模造品(まがいもの)の正統性を裏切る行為となってしまうでしょう。そして案の定、この詐術は破綻します。

「ロニー・下村の埋葬」にはまた別のエピソードも描かれます。近所の子供たちから「邪悪なサンタ」とよばれる意地の悪い老人、ロニー・下村は、ゴミ捨て場を過剰に監視していて、大して汚れてもいないゴミ捨て場を、「あなたがたが越してきてから汚れ放題だ」と言って新参者をいじめています。そこでテルオは、この老人とそっくりの等身大模型をつくり、ゴミ捨て場のゴミ箱に入れておきます。いつものようにゴミ捨て場を監視するロニー・下村は、そこで「自分の死体」と対面することになるのです。この時、まがいものの自分の姿を見て腰を抜かしたロニー・下村は、本当に「自分の死体」を見たと言えるのでしょうか。それともこれは、たちの悪い悪戯に過ぎないのでしょうか。

ここで、多くの臨死体験者が、ベッドに横たわる自分を医者や看護師が救護している姿を、天井の辺りから見ていたという記憶をもつことが思い出されます。このような、自分を含んだ状況を別の視点から自分が見ているという経験は、一種の垂直的な体験と言えるでしょう。ここでロニー・下村は、まがいものの自分の像に出会うことによって、これと同様の垂直的な体験(一種の臨死体験)をしたのだとは考えられないでしょうか。この経験がロニー・下谷を親切な老人へと改心させるとまでは思いませんが、この経験は彼の何かを変えたはずです。ここには、テルオの悪意によって成立した、模造品(まがいもの)を媒介とした垂直的な経験(幽体離脱)があると言えるのではないでしょうか。

純粋なよろこびのみを目的とする奏介のつくる模造品は、非連続的な空間を水平的に接続したり、切断したり、合成し直したりはしますが、それだけでは垂直的な連結はなされません。しかし、その裏に、悪意と復讐心をもつテルオの存在が貼りつくことで、模造品(まがいもの)から垂直的な経験が立ち上がるのです。テルオの悪意が、垂直性を欠いた空間に、フラクタル性とはまた別の垂直性を産みだします。二人が表と裏の主人公のペアであるというのは、そのような意味においてです。

この作品には、そびえ立つ山によって成立するような垂直性はありませんが、サイズの異なり(この世界はより小さな世界を包んでおり、さらに、この世界はより大きな世界によって包まれているというフラクタル性)や、模造(まがいもの)の媒介によってあの世とこの世との相互包摂が生じるという、そそり立つものとは別の垂直性を含んでいると言えます。