2024-09-27

⚫︎以前考えたことを図にしてみた。これは、一方に「唯一の現実としてのこの世界」という「一としての現実」、他方に「可能なものの総体としての可能世界」という「多としての現実」を置いて、二つの「現実」を両極として、その中間を「広義のフィクション」の場として、その性質を「反復回数」によって分類して考えるというもの。

そもそもこれは、三浦俊彦による「フィクションとシミュレーション」の分類から示唆を受けている。ぼくはこの対照表、および三浦の講義全体をとても興味深く観たが(特に、可能世界から倫理を考えるというやり方に刺激を受けた)、同時に、フィクションの位置付けにどうしても納得がいかなかった。

(分析哲学におけるフィクション論は、いつも「フィクション世界の存在論」のようなものに傾くが、それではフィクションの勘所が掴めないと、ぼくは思っている。)

三浦俊彦「フィクションとシミュレーション」ー公開講座「仮想と現実」2016

https://www.youtube.com/watch?v=VKobXLHsogg

 

フィクションは表象ではなく、行為や出来事が現実の内側に畳み込まれることでフレームが発生し、再帰構造が生まれるような行為や出来事であると、ぼくは考える。たとえば俳優は、虚構というフレームの中で演じるのではなく、「演じること」によってフレームを創り出し、現実のなかに脱現実的な入れ子構造を発生させる。それを、現実のなかで起る脱現実的(準現実)な行為や出来事として、フィクションだと考える。フィクションとは、現実の中で起こる脱-現実化の運動である、と。

そこで、フィクションとシミュレーションを、三浦のように別物として対照して考えるのではなく、有限反復と無限反復というように反復回数を軸を用いて連続的に考えることができるのではないかと思った。狭義のフィクションが、現実ではないが、現実であり得た別の可能性を感覚可能な形で具体的に立ち上げるとすれば、シミュレーションは、ある設定を作って、計算機を用いて数十万回、数百万回とシミュレートを繰り返し、その確率分布をみる。この反復回数の違いが、性質の違いを必然的に呼び寄せるのではないか、と。

(追記。上の画像で三浦は、設計図、スコア、をフィクションの側に、レシピ、プログラム、をシミュレーションの側に分類しているが、これを「反復(想定)回数」で考えると、設計図→スコア→レシピ→プログラム、というように、連続的に反復(想定)回数が増しているのがわかるだろう。)

(追記。ここでは「設計図」を、建築の設計図を想定して考えているが、精密機械の設計図とか、自動車の設計図だと当てはまらないかもしれない。)