2022/01/31

●人生の時間に限りがあるとしたら、その残された時間で現実として何が出来るのか、と考えるより、どれだけ多くの、そして多様な「おもしろい夢」がみられるのか、と考える方がおもしろいのではないか、と、ふと思った。ここで「夢」とは、希望や欲望のことではなく、眠ってみる夢のことだ。それだと、生きている時間のできるだけ多くを眠って過ごしたい、ということになってしまうが、そういうことでもない。

(耐え難い悪夢というのもあるから、ただ眠っていればよいということにはならない。)

(それに、おもしろい夢をみるためには、現実的な---身体的、感覚的に多様な---インプットも重要だ。現実の、夢に対する影響。)

(夢をみることそのものがひとつの思考であり、実践だが、「おもしろい夢」という実践だけでなく、それについて、現実、あるいは意識の次元で反芻し、考える、ということもおもしろい。それが、現実における感覚や認識を変える。夢の、現実に対する影響。)

(おもしろい夢を自分だけでみるのではなく、それを何かしらの形で表現したい、ということもある。夢を表現することは、夢の反復であり、アダプテーションであろう。)

(夢の次元だけでなく、現実の次元だけでもなく、その2つの層が相互作用する、その中間にあるようなものこそがおもしろいということか。)

(つまり、それがフィクションの層ということなのか。)