●『インセプション』(クリストファー・ノーラン)をDVDで。最初の方を見ている時は、もっと面白くなりそうな感じだったけど、後半というか、四層の夢が同時施行するクライマックスがぼくにはまったく退屈で、なんか冴えない映画だなあという印象。夢の多層構造とか入れ子構造みたいな話は、(例えばアニメーションなどで繰り返し取り上げられる)ありふれているとともにきわめて魅力的な主題で、ひどく陳腐なものにも非常に魅力的なものにも紙一重で転ぶと思うのだが、この映画はやろうとしていることがバラバラで全体としてかみ合ってない感じがした。
物語の次元で言えば、物語をけん引するいくつかの要素、多彩なキャラクターによるチームプレイ、父と息子の確執、男と亡くなった妻との関係、男の過去に干渉する若いヒロイン等の各要素がどれも弱くて、薄っぺらな感じ(こういう紋切型の物語要素は、アメリカ映画にはジャンルとしての膨大な表現の蓄積があって、それをもっとうまく利用できるはずなのだが)。男と妻との関係が、常に事態を危機に陥らせるのだが、その妻(いわば幽霊)の「出現のさせ方」もいまひとつ面白くない。さらに、ライバル企業の次期経営者に会社を解散させようとする意志を植えつけるという物語のそもそもの骨子に疑問がある。そんな大企業の経営者が簡単に世襲で決まるものなのか、とか、創業者の息子だからと言って巨大化した会社を自由にできるものなのか、とか。なんか、そういうところが「薄い」感じ。
物語はおいといて、視覚的にすげえ、という要素をクライマックスにガンガンもってくるのかと思っていたけど、実はそれほどすごくもない。予告編などで見た、夢の空間自体がねじ曲がって折り返されてしまうというシーンは、最初の方に作品全体の構造とはあまり関係ない形で(「つかみ」みたいな形で)ちらっと出てくるだけで、後半ではほとんど生かされない。かろうじて、夢の二層目のところで無重力のような空間やパラドックスが出てくるくらい。四層の夢が同時進行すると言っても、その一つ一つが凡庸だし、各層のリズムの違いとその同期/非同期が、表現的にも内容的にももっと生かされた形にならないと、「これって普通の平行モンタージュとあんまり変わらないよね」と思ってしまう。前半の、夢か現実かどちらかわからないという不安定な反転構造が(この部分はまあまあ面白かった)、後半では、夢のより深い次元に降りてゆくという層構造になることで、安定してしまうというか、動きがとまってしまうのだと思う(だからこそ、各層間の同期/非同期がもっと複雑かつ分かり易い形で組織されなければならなかった)。
あとなにより、アクションシーンが退屈。二層目の無重力での格闘はちょっとおもしろいけど、でも冗長になってしまっているし、三層目の雪山の場面は、なにがどうなっているのかよく分からない(各層の時間の流れ方の違いが、結局、すべての層の場面を無駄に「引き伸ばし」てしまっていると思う)。もっと視覚的な、空間そのものがゆがんだり、目の前にいきなり歩道橋があらわれたりする前半の感じを、物語や作品の構造にきちんと織り込んでゆくようにした方が、ずっと面白くなるんじゃないか思った。
こういう題材で、これだけの予算と技術があれば、もっともっと面白いものに黙っていてもなりそうなものなのに、何故こういう冴えない感じになってしまうのだろうかと思う。ノーランの映画は他には『メメント』と『インソムニア』しか観てないけど、基本的に、普通の三次元的な空間把握が弱くて、さらに、俳優の演技を見る目も弱いよう思われる。そのような欠点を、初期の作品では、要素を細切れにして作品の構造を緻密で複雑なものにしてゆくことで解決していたと思うのだが、丁寧につくられたマニアックな作品ではなく、ハリウッドでもメジャーな感じの映画になると、キャッチーな物語要素もいれとかなくちゃいけないとか、アクションシーンも盛り込まなくちゃとかいうことになって、中途半端な感じになってしまうのだろうか。
●でも、決して嫌いな映画じゃないし、「虚無におちる」という感覚や、渡辺謙が、短い夢のなかで長く孤独な一生を過ごしてしまう(しかしその場面は描かれない、描きようがない)とか、そういう感じはすごく好きなのだが。この映画の渡辺謙の演技は決して良いとは思わないし、そもそもこの監督に「良い演技」への関心があるとも感じられないのだが、飛行機のなかで目覚めた時の渡辺謙の表情には、ぐっときてしまった。実はぼくは、この映画全体が、決して直接的には描かれることのない、永遠のように長く孤独な渡辺謙の(夢の中での)一生こそを表現しているのだとさえ思う。そう考えると、この映画が急に魅力的なものに感じられてくる。