●充分に密度のある「作品」は、わたしとあなたが共有されない別の身体によってこの世界のなかにいるという事実を絶対的な形で示し(だから人は常に作品の前では孤独であるはず)、しかし同時に、まさにそのことによって、切り離された異なるものたちの間にも通路や共振があり得ることを、(一般的な解としてではなく)個別的な具体例として創造し、提示する。作品を、フィジカルな次元で「分かる」というのは、そういう感触に触れるということだと思う(誤解を避けるために余計なことを書くが、それは必ずしも直感的なものとは限らない。綿密な分析や解析によってこそはじめてそこに至ることが出来る、ということもある。そこへと至る道も、作品を受け止めるそれぞれの身体のあり様によって千差万別であるはず)。ぼくには、作品にとって重要なのは、ほとんどそのことだけじゃないかと思える。
(制作の時間のなかでは、「わたしとあなた」が「わたし1とわたし2」だったりもする。)