●ぼくにとって、無茶苦茶視力が良くて遠くまでくっきり見える人や、無茶苦茶耳が良くて昆虫の羽音の振動数まで聞こえてしまうという人に対する興味は、幽霊が「見えてしまう」人への興味につながっている。だが、通常の意味での目の良さや耳の良さは外的な装置などによって検証可能だけど、幽霊が見えるという話は、その客観性(知覚と外界の出来事の関係性)をはっきりとは検証できない。でも、そのあやうさが面白い。
『音楽嗜好症』には、実際には鳴っていないはずの音楽が、実際に聞こえているのと区別がつかないくらいに明確に聞こえてしまう「音楽幻聴」に悩まされる人の話が出てくる。それは、統合失調症などに伴ってあらわれる幻聴とはまったく違ったもので、神経学的な根拠をもつものだと書かれている。
≪(…)ポーランドの神経生理学者、イエジー・コノルスキーが『脳の双方向性活動』の数ページを「幻覚の生理学的基盤」に割いた。コノルスキーは「なぜ幻覚は起こるのか」という疑問を「なぜ幻覚はいつも起こるわけではないのか。何が抑制するのか」に逆転させた。彼は動的システムが「知覚、イメージ、そして幻覚を発生させることがありえる……幻覚を起こすメカニズムは脳に組み込まれているが、何らかの特別な条件でのみ作動する」と考えた。コノルスキーは、感覚器官から脳に向かう求心性の連絡だけでなく、反対方向に向かう「逆向」の連絡もあるという証拠をまとめた―― 一九六〇年代当時はまだ弱かったが、今は歴然としている。≫
脳にはあらかじめ幻覚や幻聴が見えてしまうメカニズムが内蔵されており、何かしらの原因でそれを抑制する回路が失調すれば、見えるはずのないものがリアルに見えることは誰にでもあり得る、と。だが、ここで書かれているのはもともと脳の中にあるモノが脳によって見られ、聞かれているということで、脳の誤作動であり、その知覚は外界に対応物をもたないということになる。でも、「見えてしまう人」の話を聞いたり読んだりすると、その知覚あるいは感覚の内容が、外界にまったく対応物をもたないとは考えにくい場合も多々ある。
オカルトが退屈なのはその物語が退屈なのだし、オカルトが問題なのは、その物語の社会的機能(人の不安や恐怖を煽り、恫喝するのに使われがち、とか)が問題なのであって、それは結局、記述言語や体系の問題であって、「見えてしまう」という感覚の問題ではない(でも実は、共有されない感覚について語るというのは、表現形式の能力を超えて表現しようとすることだから、そこに常に表現体系の歪みが生じるから、胡散臭さは不可避であり、そこがまた面白いのだけど)。たとえば、何キロも先にある信号が、今赤から青に変わった、とか言われても、ぼくにはそんなものが見えるなど信じられないから、その人がいい加減なことをいっているとしか思えない。でも、それが見える人にとっては、「見える」ことは当然の前提だろうし、それが「見えてしまう」のが自分にとっての世界で、それは「他の多くの人とは違う」と言われても、どうしようもないだろう。いま、ここにいる自分にとっては、何キロも先の信号の色など知る必要はまったくないのだが、必要があろうとなかろうと、「見える人」には見えてしまう。自分の行動に対してまったく関係のないものまでがくっきり見えてしまうということは、常に現実と幻覚が二重になって見えてしまうのと同じくらいに鬱陶しいことなのではないか(過度にクリアーな知覚はそのクリアーさそのものがノイズとなる)。そして、その人と一緒にいたとしても、その人がそういう話をしなければ、一緒にいるぼくにはそんなことまで見えているとは想像もできない。ぼくには、そういうことがすごく面白い。
ただ、遠くまで見えるというのは、ぼくも持っている能力の精度をとてつもなく拡張させたものだから、そう言われればそのような視覚を想像することが不可能ではない。それに比べて、絶対音感というのは、そもそも音感の良くないぼくにはもう少し想像が難しくなる。幽霊が見えるということになると、さらに難しくなる。映画などで幽霊が出てくる表現はいくらでもあるのだが、それは実際に「見える」感じとどれくらい近いのだろうかと思う。実際に「見える」人のつくった映画があればぜひ観てみたい。ただ、ここにも言語というか表象の問題があり、自分の感じている感覚を自分に対して説明する(つまり「意識する」)時は既に、それは(他人によって予めつくられたものである)言語や物語や表現形式に影響されてしまっているはずだから、案外、すごく普通だったりするのかもしれないのだが。
以上のことは特殊なことを言っているのではまったくなくて、一人一人がそれぞれ別の身体で世界を受けとめているのだから、例えば、他人つくった作品を観るということは、幽霊が見える人がする話から幽霊を見る時の感じを想像し、自分のなかでその感覚を再構成しようとするのと同様の困難さが常にあり、だから最大限の繊細な注意が必要で、でも、だからこそ面白いのだと思う。
(だから、ある作品に対して、それを分かる人と分からない人が分かれるのは当然で、それは作品の良し悪しや好き嫌いとはまた別のこと。)