国立新美術館でやっているアーティストファイルの利部志穂の作品がすごい。利部さんの個展をはじめて観た時の衝撃を改めて思い出す。この作品を観た感覚をなるべく保存しておきたくて、他の作品はあまり目に入らないようにして通り過ぎてしまった。利部さんが、唯一無二のユニークな作家であるということはどの作品を観ても分かることだけど、いろんなことがぴたっとハマった時の切れのすごさというのは、そういつもいつも観られるというわけではない。
●まず、空間の上下の使い方がすごい。金属のパイプを人の身長よりやや高め(天井にしてはかなり低め)の位置に並べて設置することで空間の上下を二つに区切り、上の部分の広さに対して、我々のいる下の部分に、何とも言えない圧迫感をつくりだす。この抑圧的な効果が、この作品を作動させるキートーンの一つだと言えると思う。とはいえ、パイプそのものは細いし、等間隔に並んだ金属パイプのリズムはシャープで美しく、美術館の高い天井も見渡せるので、視覚的にはむしろすかっと抜けている感じではある。
全体の見え方としては、利部さんの作品としては抑制されすっきりしている方で、白い壁に、細い、線的な金属のモノ、面的ではあるが薄くて軽い白い紙、プラスチック製品が、主な構成要素としてある。鏡が、像を映し返すという性質を最小限に抑えられて、シャープなエッジとメタリックな表面をもつ平面的なモノとして使われているのも面白い。
全体としては、白とメタリックな質感の目立つ、シャープですっきりと抑制された視覚的な印象があるにも関わらず、金属パイプによるすだれ天井(という言い方は適当ではなく、もっと粗な、記号的仕切りのようなものなのだが)によって、視覚的な印象と相反するような身体的な抑圧感が作動する。そしてさらに、実際に作品のなかに足を踏み入れると、全体のシャープなリズムと明るさによって「見えにくく」なっている、細かい針金の造形物や、倒してしまいそうな足元の小物などが複雑に配置されているので、それらへの配慮が自動的に働いて、身体が余計に「縮こまる」感じになる。
美術館の広い展示室、天井も高い、そして視覚的にはその広がりを限定するものはあまりなく、むしろそのシャープさを強調するような配置で、空間の大きさや開放感を一目で感じられるにもかかわらず、身体的、運動的には、狭い店内に細かい小物が通路にまではみ出るほどぎっしりあふれている古道具屋の迷路のなかにいるような感じになる。この矛盾する感じ。見晴らしがよいにもかかわらず足元がおぼつかない、メタリックでハードなエッジの空間なのにホコリとカビと湿気が極めて間近に漂う感じ、という感覚の乖離と軽い混乱のなかで、様々な感覚が切り離されて、それぞれ勝手に走り出すような感じになってくる。視覚的な拡張性と、身体運動的な制限の強さの相容れなさによって、実際、この作品の内部にいる時、自分の身体のサイズに対する感覚がよく分からなくなる。一目で見渡せるし、隠されているものは何もないのに、いくら見ても見終わることがない。
さらに、「見晴らしのいい迷路」のようなその空間のなかで、メタリックで直線的な印象とは矛盾するような、細い針金状の様々な造形物をはじめとする、作家のいたずら心を感じさせる「小ネタ」の数々を発見して、思わずニヤニヤすることになる。小ネタは、空間と断絶してあるのではなく、様々なやり方で空間と絡み合い、空間から派生して出てきているいるものなのだが、しかし空間の全体的印象に従属しているのではなく、逆に、空間を濁しているのでもない。これら小ネタを見ている時、身体的動作の「縮こまり」とはまた別のモードが走り出し、猫がネズミくらいの身体サイズとなって作品を観ている感じになった。しゃきっとした見晴らしのよい風景であると同時に、ぐにゃぐにゃごちゃごちゃした迷路であり、またさらに、様々な仕掛けが作り込まれたお化け屋敷でもあり、それらの異なる空間性が、隠されたものなど何もなくすべてあからさまにさらされた、白くて均質に明るい空間のなかで、滑らかに繋がれ、重ね描きされている。ということはつまり、均質で明るい空間のなかに複数の亀裂が隠されているということだろう。
亀裂は、隠されたところ、暗いところ、深いところにあるのではなく、すべてがはっきりとさらされた明るさのなかで、見えるのに見えないものとしてある。空間は、均質であると同時に均質ではなく、亀裂は、空間を断絶させ、モノとモノを切り離すが、同時に、切り離すことよって別の通路を、別の重ね合わせ生み、そしてまたそれをも断ち切る。そしてそのような空間の亀裂を感知するのは、我々の感覚の亀裂であり、あるいはいったん断絶された感覚同士の勝手な連接であって、感覚そのものではない。それは表象(感覚)出来ないが、ブランクや歪形や切り替え(移行・転調)の流れとして感知はできる。利部さんの作品の構成原理は、モノとモノとの関係の切り離しと結び直しにあると思うのだが、それは既にそこにある、ある程度固定されたモノとモノとの関係(美術館の展示空間)に関与し、解体し、別の関係の一部へと取り込む。図(モノとモノとのつながり)の切断と連結が、地(関係・空間)を動かし、その切断と連結に作用し、それがまた図の切断と連結を促す。ある関係の一部が別の関係の一部へと流用され、その別の関係もまた、それとは別の関係の一部へと連結される。
利部さんの作品は、作家のメッセージや感覚を効果的にプレゼンテーションするというような作品とは根本的に違っていて(そういう、分かり易い着地点こそを揺るがしている)、美術館の展示室に、まったく異質な空間を実際に、現実として出現させていると思う。
作品があって観客がそれを観るのではなく、作品の一部と観客の一部とが連結することで作品が作動し、作品の作動によって「観客」を形作っていた諸関係が切断され、バラバラになった観客がバラバラに作動する作品の諸要素のなかを循環し、バラされた観客はそのなかでまた勝手に切り離されたり、繋ぎ合わされたりする。だから、作品を通過した観客はまるで合い挽き肉のような、半分別物が混ざった再編成体になっているだろう。