●渋谷東急で、『天が許し給う全て』(ダクラス・サーク)、銀座のなびす画廊(http://www.nabis-g.com/)で、利部志穂・展。
●利部志穂の作品はメチャクチャ面白い。美術作品がこんなに「面白く」あり得るのだということに、とてもうれしくなる。そして、面白いなあと思って作品を観ながらも、「面白い」って一体どういうことなのか、と考えたりもする。おそらく、「上手く」見えちゃったら、あまり「面白い」ということにはならない。それは、意図的に下手っぽくやればよいということではなく(実際には「上手く」なければ面白い作品はつくれないと思うけど)、上手い/下手という判断が浮上するより先に「面白い」という浮き浮きする感じが立ち上がって、上手い/下手という判断を「どうでもよいもの」にするのだと思う。上手く見えてしまった瞬間に、作品と自分との間に一枚(公式的な、言い訳的な)何かが挟まり、作品の手触りは少しだけ遠いものなり、面白さの感触は目減りする。面白い作品は、常に感覚を刺激し、フレームを固定化させず視線を移ろわせ、しかしその移ろいのなかに確実な質を立ち上げ、視線の移動のなかに意外なものの不意にあらわれさせて、その流れに句読点をうち、そして新鮮さを取り戻した視線が再び新たな流れを追って動いて行く。それは常にあやういところでしか成り立たないが、この作家はその危うさから逃げない感じがする。
その作品を全体として捉えようとすると、掴みどころがなく、拡散してみえるのだが、その空間のなかに分け入って、一つ一つの細部を見てみようとすると、途端に空間が動き出す。全体に、様々な異なる質をもった細長い棒状のものが多く使用されているため、視線は一カ所にぐっと掴まれるようには固定しない。棒状の物質は、空間のなかに線的な動きをつくるが、しかし同時に、それは廃材であり、それぞれがそれ自身として独自の質感を持ち、時間を感じさせもするので、たんに空間を分節し、動かすというだけのものには留まらない。線的な動きを追う視線は、その過程で、知らず知らずのうちにその質感を感じて感覚を活性化し、物質の古い時間の感触は、見る者の記憶の深くまでざわつかせるだろう。
棒状のものの構成は、空間のなかで線的な動きをつくるだけでなく、視界のなかでいくつか重なることで、仮のフレームのような役割ももつ。棒状のものが重なってつくるフレームは、見る者が移動することでその姿を複雑に変化させ、作品全体としての「景観」を、様々に分節する。見る者はその変化をも楽しむことが出来る。廃材であることで強い物質的な喚起力をもち、棒状であることで空間のなかに線的な動きを生み、それらが複数重なることでフレームのような役割ももつ、様々な棒状のパーツは、画廊の空間全体に拡散的に、しかし単調には決してならないように配置され、観客はその全体像を決して一気には把握できないが、それ全体が、ある一つの統一した表情を有する構築物であるということは、作品空間のなかを分け入って見る過程で感受することが出来る。
作品のパーツは、おそらく全て建築廃材(あるいは、もっと広く、住まい-家に関する廃材)だと思われるが、それ全体を廃材と呼ぶのことがとても雑な琴であるように思われるほど、それぞれ個々のものが異なる質感と表情をもっている。おそらくそれらは、どこかの建築解体現場に行ってごそっともらってきた物たちではなく、時間をかけて、作家の日々の生活のなかで、その時々の気分や趣味のフィルターを通しつつ集められたもののように思われる。全体として、建築廃材であり、金属質のものがおおく、そこには作家の好みとも言えるある共通した感覚的統一性はあるものの、それが決していっぺんにごそっと集められたのではないこと、ある長い時間的持続のなかで少しずつ集められ、作家自身の、それを集めるという時間的な過程のなかで趣味や基準のブレなども含んだ多様性が感じられることは、この作品の質を支える重要な要素だと思われる。
しかし何よりもこの作品で魅力的なのは、それら個々のパーツの組み合わせの意外さ、新鮮さだと思う。個々の物のそれぞれは、日常的に見慣れたものの廃材であり、古いことによって親しさが増してさえいるが、その個々の結びつき方は、日常ではあり得ない、次元が歪んだような、ロジカルタイプが無視されたような、妙な結びつけられかたをしている。この妙な感覚こそが、この作家の最大の才能であるように思われる。それはまるで、アンソニー・カロのようであり、吉田戦車のようであり、ティンゲリーのようであり、カフカのようであり、トリシャ・ブラウンのようであり、レーモン・ルーセルのようであり、しかしその誰とも違う、利部志穂という作家独自のものであろう。金属や木の質感として、あるいはその形態の面白さとして眼が追っていた「それ」が、突然、「あっ、これ松葉杖だ」と気付く時、まるで言葉のない世界にいきなり言葉が現れたかのような衝撃が走る。(この作家の素晴らしいところの一つは、言葉に囚われていないのと同じ調子で、言葉を排除もしていない、というところにある。言葉がある/ないという単純な二分法ではなく、そのあやうい中間を漂い、時にふっとどちらかに振れる。)とんでもないところに、(けっこう目立たずに)意外なものが結びつけられているので、観ている時間のなかでふっとそれに気付くと、思わずうれしくなって口元が緩んでしまう。
複数のパーツが組み合わされて出来たそれぞれのユニットは、単体としても一個の彫刻といってよい高い質をもちつつ、しかしそれが決して単体として全体から途切れず、常に他との境界(フレーミング)が固定されないので、全体としてはやはりインスタレーションというしかないもののように思える。
●とにかく、こんなに面白い美術作品を観られることはめったになく、インスタレーション作品なので会期が終わると作品が存在しなくなってしまうので、会期中に、是非、一人でも多くの人が観て、美術作品がこんなに面白いものであり得るのだということを知っていただけたらと思う。来週の土曜までやっているので、ぼくも最低もう一度は観たいし、時間が許せば何度も観たい。