●ぼくは、一応東京都内だけど、都心から離れたところに住んでいる。だから、都心で飲んだりしていると、ちょっと気を緩めると終電を逃し、だからといってタクシーでは帰ることも出来ないくらい遠い。若い時は、その場ではじめて会った人の部屋に泊めてもらったりすることも普通にあったのだが(一度、はじめて会ったミュージシャンの部屋に泊めてもらった時、その部屋にご真影のようにマルクスの写真が掲げられてあって、おーっ、と思ったことがあった)、一定の年齢を過ぎると、大抵、相手には「翌日の都合(仕事)」があったり、「家庭」があったりするようになり、そういうことは遠慮するようになってゆく(ぼくの側には、「家庭」もないし、大抵の場合、「翌日の都合(仕事)」もないのだが)。
大人になるということは、終電を逃しても帰らなくてはならない「翌日の都合(仕事)」が出来、タクシーで帰ることの出来る経済力が出来るということなのだとすれば、ぼくには未だにそのどちらもなく、学生の時の延長のままで生きていることになる。
まあ、それはともかく、最近では都心で飲むときは終電ぎりぎりではなく、もっとはやめに余裕をみて、十時半とか十一時くらいに切り上げる感じが多くて、ただ、だとしても、結局部屋に戻るのは十二時を越えて翌日になってしまうのだし、中途半端に飲んでいると却って眠れないので、また部屋で飲み直すこととなり、寝るのは朝方になってしまったりして、つまり「はやめに切り上げる」ということに意味なんかないんじゃないかと、ふと気付いた。
終電など気にせずに飲んで、ああ、終電なくなっちゃったと思って、ネットカフェとかで仮眠して始発を待つ、という方が、ずっと体に優しいのではないか。中年になると、徹夜なんかすると、翌日がボロボロなだけでなく影響は数日つづいてしまう(これは事実だけど)から、とにかくちゃんと帰らなくては、という思い込みが強過ぎるのかも。
こういうことを書くのは、最近ちょくちょくネットカフェに行くようになったからで、それは、ぼくの部屋のネット環境が今でも「ダイヤルアップ」で、いちいちその都度モデムを使って、ピー、ヒャラヒャラヒャラヒャラー、とかやって回線に繋げて、しかも回線がとても細いので、動画は勿論のこと、サイズの大きい画像なども見られず、たまにサイズの大きい画像が添付してあるメールなんかがくると、それを受信するだけで何十分もかかったりしてしまうという、人にこのことを話すと「古谷伝説」とか言われてしまうような超ズレまくった環境にあって、で、ネットカフェでスムースに動画とかが見られると、おおーっ、これが現代のインターネットか!!!、と思うのだった。
以前、夜勤のバイトをしていた時、朝、仕事がおわってから、一度部屋にもどらなくても、どこか仮眠できる店があって、一、ニ時間そこで仮眠して、そのまま映画とか観に行けたら便利なのにと思っていて、時には山手線に乗って一周分眠ってから映画に行ったりしたのだが、今ならネットカフェがあるじゃん、ここ、仮眠に最適じゃん、と思うのだった。