国分寺スイッチポイントで利部志穂展、最終日。ちょっと意外な感じで面白かった。今までの利部さんの作品のネガとポジとをひっくり返したみたいな感じ。利部さん自身も、「今までだったら、物と物とを組み合わせる時、そこにイメージの影が出てきそうになると方向転換して別の方向へゆく感じだったけど、今回の作品は、そのイメージの影をつかもうとした」というようなことを言っていた。
とはいえ、今までの利部的、混成的空間がなくなったわけではなく、それがややシンプルな形へと後退したところに、その隙間から異次元の侵入物みたいにして、紙によって構築された、動物や植物を思わせる立体的な造形物があらわれている、という感じ。カットされた白いボール紙がホチキスによってとめられることで構築された立体物は、イメージそのものというより、イメージが生まれようとしている、あるいはイメージが消えようとしている、その瞬間のような感触をもつ(例えば、牛のイメージというより「牛的な構造性」みたいな感じ)。
この立体造形物は、それだけ単体で取り出しても作品として充分に面白い。しし、様々な文脈から切り取られてきた、様々なテクスチャー、様々な形態をもつ物たちによって構成される混成空間の隙間に、白いボール紙による、同一の色、同一のテクスチャーをもつ、同一の構築原理でつくられた(具象性の強い)立体が増殖していることで、それら紙の造形物たちが、テクスチャーを際立たせつつも、反転して、マイナスとしてのイメージというか、隙間としてのイメージとなっているように見えるところが面白い。イメージが空として成り立っている、というのか。
そして、ギャラリーのスペースの一番奥に、利部さんの日常生活をモチーフとした映像作品が投射されている。今までも、作品に映像は使われていたけど、それはインスタレーションの一部として映像があるということだったが、今回は独立した映像作品となっていた。作品全体の空間の複雑さが後退して、そこに空としてのイメージがあらわれることで、映像(と言葉)が作品から分離される、というのもまた面白い。映像作品もまた、日常生活を切り取った断片が、かなり具象性の強いかたちで編集されている。
全体としては、手前に、キッチンの食卓を感じさせるような空間があって、そこに多くの植物や動物が「空としてのイメージ」として配置されていて、その奥に、リビングにあるソファーと大型テレビのような空間があって、そしてそこにはキッチンに立つ利部さんの姿が映されていたりする。つまり、そこに生活の場があるけど、そこで生活している人は映像の向こう側にいる、みたいな感じでもある。
多層的な文脈が錯綜する混成的空間があり、しかしその混成性がやや後退することで、空としての具象的イメージ(イメージの影)が異次元から滲み出してきている。そして、そこから排除されるというより、湧出して出るかのように、散文的な日常の映像が切り離されて上映される。おそらく今までの作品であれば、それらがすべて渾然一体となって存在していたのだと思う。しかしここでは、今までネガのような形で潜在的に作用していたイメージ(イメージの影)が具現化されることで、三つの様態への分離が起こったのだと思われる。
このことはおそらく、去年の原発事故と、そのような世界のなかでの、利部さん自身の懐妊という事実と繋がっているのだと思う。利部さんは、ずっと部屋にいながら、人間のいなくなった福島の動物や植物のことを考えながら、紙の構築物をつくっていたという(この時、動物や植物は、それ自体思い入れ可能な「あなた(生命)」であると同時に、わたしや子供が「食べるためのもの(食物)」でもあろう)。これを安易にメッセージとか祈りとか言うのには抵抗があるけど、それでもやはりこれは、何かに対するメッセージであり祈りであるのだと思う。だが、この作品にあるのは、たんなる「意味」の「図示」ではなく、空間の組成そのものの変容なのだ。
それにしても、自身の懐妊をこのような形で表現する作家はほかにあまり考えられない。やはり利部志穂はすごい作家なのだと思った。