●昨日、神保町SOBOで観た「谷口暁彦/スキンケア」について。いきなりネタバレなので未見の方は注意してください。とりあえず作品を、以下のようなものとして記述してみる。
(1) コンビニで買ってきたいくつかのお菓子のパッケージの表面のテクスチャーをフラットベッドスキャナーでスキャンする。次に、それとは別に形態のみを3Dスキャンする。表面と立体とでバラバラに得られたデータを貼り合わせる。それによって生まれた仮想3Dお菓子パッケージを、物理シミュレータを使って仮想空間内で落下させる。その時、物理的な条件を決定する変数を少しずつ変えて、現実空間内ではありえない落下の状態をつくりだし、そのいくつかのパターンをディスプレイで表示する。
(2) (1)で行われた仮想空間内の操作を、現実空間で再現する。お菓子のパッケージの表面を白く塗り、立体データを模したものをつくる。それをテーブルの上に配置する。白く塗られた表面に、スキャンした表面データをプリントアウトして張り付ける。しかし、ぴたっと一致させるのではなく表面と立体でズレが生じさせてある。空間自体が印刷ミスみたいな感じになる。
(3) (2)と同じ配置でテーブルに置かれた状態(しかしまだ白く塗られていない)お菓子の配置を3D画像としてスキャンする。スキャンしたソフトが自動生成する平面画像が壁に展示される(立体データが内包された平面画像、といえるのか? この画像自体がすごく面白い)。その画像がリアルタイムでカメラによって撮影されており、今、カメラが撮っている絵がその場でソフトを通過することで回転する3D画像へと変換され、それが別の壁面に投射される。つまりこれは、3D映像を生成するソフトが自動的(潜在的)に行っている計算の過程の途中を、一部強引に切断して顕在化し、その間に現実の空間と時間を挟み込んだということだと思う。投影される3D画像は、現実空間の揺らぎ(光の変化やカメラの前に人が立つなど)に影響を受ける。
●ここで行われていることは、現実の空間と仮想空間の間で何かがやりとりされているということであろう。現実から仮想へと持ち込まれたお菓子のパッケージは落下に失敗し、仮想から現実に持ち込まれたテクスチャーと立体構造の分離は、着地=再接合に失敗する。これは相互の変換不可能性を示すのではなく、失敗は意図的なもので、失敗すらも変換=共有できるということだろう。いったん仮想空間を通過することで、通常「この世界」では起こらないような失敗をこちら側に招き入れることができる、と。
しかし、仮想空間というものが既にどこかにあるのではなく、それは、別々にあった平面的テクスチャーと立体的構造が貼り合わされ、それが三次元座標のなかに配置され、物理的変数が調整されるといった、操作と計算を通じて生成されるものだということが作品を通じて意識される。その時にどうしたって、現実空間だと思っているこの場所も、ここにあると思っているお菓子のパッケージも、脳による操作と計算とによって生成されているものだということが意識されざるを得なくなる。脳による計算より前の「この世界」などないのではないか。向こう側の失敗をこちらに持ち込めるくらいなのだから、向こうとこちらは等価であり、「ここ」に何の特権性もないのではないか、と。これは言語的な懐疑というより、「ここ」に対するうっすらとした気味悪さや不安のようなものとして生じる感覚だ。
(3)の作品で、物たちをフラットに詰め込んで加工したように見える平面画像と、壁に投射されている立体画像との関係が、最初はよく分からない。立体画像を観ようと近寄った時、そこに自分の姿の一部が映り込むので、カメラの存在に気づき、カメラが平面画像を撮っていることに気づく。その映り方(変換規則)がとても変なので、しばらくカメラの前で手をチラチラ動かしたりして、カメラが撮っている画像と、投射されている画像の関係を探ろうとするのだが、あまりに複雑なのでよく分からない。
そして、キャプションのようなテキストを読むことで、どうやら平面画像が立体画像の原データであるようなものらしいと分かる。この、フラットでごちゃごちゃした平面画像が、ある規則に従って変換されることによって、あの3D画像になるということなのか、と、実感として簡単には飲み込めないままで理解はする。そしてしばらく平面画像と立体画像とを見比べて、なんとか自分の脳によってこの平面画像を立体視することが出来ないかと試みるが、まったくできそうもない。
(しかし、「そこに立体データが編み込まれた平面画像」というものを目の前にして、「絵画」というものの存在について考えないことはぼくには難しい。これを自分の脳が立体視できないということは、絵画を描く者として敗北なのではないか、とか思ったりする。)
ここで示されている、原データと立体像の併置は、あからさまに、我々が見ている「この世界」が脳によって構成されているという感覚を、(1)(2)の作品とはやや異なる、少しばかりメタ的な視点から示しているように思われた。ぼくは、平面画像から必死に立体画像を引き出そうと努力したが、実は我々とは、常に既に「この世界」を立体画像として見てしまう装置なのであって、原データである平面画像へは遡行できないと言える。ただ、カメラの前を通るチラチラした影や光の変化によって生まれる像の揺らぎによって、原データの存在を予感するくらいだ、という感じ。
(勿論、それすら純然たる原データ=世界そのものではなく、ソフトが自らの形式に合わせてデータを加工したものに過ぎないし、逆に、立体像を原データとし、そこから平面像の方を構成=知覚する我々とは別の存在を想定することもできる。それらは交換可能であり、しかし、「わたし」が「この位置」にいるということだけが交換できないのかもしれない、と。)
そう考えると増々、気味が悪くも魅力的な平面画像のことが気になってきてしまう。