●さらにもう少し、一昨日からのつづき。
一昨日に、「多平面的」「多反転的」ということを書いたが、しかしそもそも、「多平面的(虚の透明性)」であるためには、図と地との反転可能性が実現されていなければならない(多平面性は、反転可能性によって成り立つ)。だから、多平面的である時、それは既に反転的でもある。コーリン・ロウ(+ロバート・スラツキイ)は、「透明性 虚と実」でジョージ・ケペシュによる「透明性」の定義を引用している。
《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》
絵画が多平面的であるときは、図と地の関係が絶えず前後に(時間差をもって)振動=反転しているというよりも、複数の「異なる奥行き(異なる地)」の可能性を視覚が同時に知覚している(共立している)ような状態になる。「反転すること」を見ているというより、「反転可能性」を見ている。可能性そのものが視覚化され、仮想空間的に感覚されている。そしてそのような状態が「虚の透明性」と言われる。
では、多平面的と多反転的とは、どう違うのか。多平面的に対して、多反転的だという時、それは、大きいと小さい、包むと包まれる、近いと遠い、突出と陥没、などの様々な関係が反転し得る状態の場がつくられている、ということになる。ここでは、反転、あるいは反転可能性は、必ずしも「透明性」とむすびついているとは限らない。
あるいは、多平面的である(虚の透明性が成り立っている)というとき、それは、あるフレーム全体の構造として成り立っている。そのことによって、複数の空間の可能性の共存---メタ空間---が、空間的なものとして感覚化される。しかし、多反転的であるという場合、反転的構造がフレーム全体として効いているというより、部分、部分で勝手に反転が生じてしまっている。だから、一つのフレームとして「メタ空間的知覚(これが「透明性」だろう)」が成立しているとは言えない。(虚の透明性が成り立っている)多平面的な絵画においては、三次元ではあり得ない高次空間を、それでもギリギリ「空間的」に感覚していることになるが、多反転的な絵画の場合、その画面を「空間的な感覚」として受け取ることがもはや不可能になる、のだと思う。
ただ、それでも、一枚の絵画(一つのフレーム)を「一つの統合された領域」として統合している何かがあるように感じられるのか、感じられないのか、という違いはある。その「統合するもの」とはやはり「空間」なのかもしれないが、我々にはもはや非空間的にしか感じられない空間性ということになるのかもしれない。