●駅前の喫茶店で小説の最後の著者校正に手を入れて、コンビニからファックスで送信し、銀座のメグミオギタギャラリーにシンポジウム「20世紀末・日本の美術」を聞きに行った。
http://www.nakamurakengo.com/sympo/
●まず単純に、「へー、90年代って、そんなだったんだ」という意味で面白かった。ぼくの90年代は、ひたすら絵を描いて、貸画廊で発表するというだけだったのだが、その同じ時に、イケている人たちには、こんな世界が見えていて、こんな風に行動していたのか、という感じ。ぼくには全然みえてなかったんだな、と。
●あと、なにより良かったのは、それぞれかなり立ち位置や考えや作品への態度が違うと思われる四人のパネラーの間で、無意味な対立が煽られる(論争的)でも、なあなあになる(空気に流れる)のでもなく、普通に建設的な話のやり取りが成り立っていたこと。一見当たり前の事のようだけど、こういう対話が成り立つのはとても稀なことだと思う。こういう言い方は失礼かもしれないけど、このような場が設定され、それが建設的なものとして成り立ったという事実そのものこそが、ここで語られた内容以上に貴重なことであるように思う。こういうことがいろんな場所で起こるといいと思う。
●話された個別の事柄に関しては、いろいろ考えるところはあるけど、最後の最後で出た「複数のレイヤーを統合するのがナショナリズムなのではないか」という話を聞いて、あー、それって、まんまポロックだなあと思った。
●以下は、シンポジウムの内容についての直接的なコメントではなく、話を聞きながら考えたこと。
シンポジウムでは、「シミュレーショニズム+オタクカルチャー=ポップ」みたいな感じだったし、アートという文脈において、それは適当な判断だと思う。しかしそこに、アートによるオタクカルチャーの取り込みの根本的な間違いがあるように感じた。つまり、オタクカルチャーは基本としてポップではなく、むしろ強力にアンチポップなのではないか。例えば、マンガ(サブカル)とアニメ(オタク)の間には、ポップとアンチポップの深い溝があるのではないか。
前にも書いたけど、オタクは世界中のどこにもいると思われる。つまりオタクカルチャーは強力な拡散力をもつ。しかし同時に、オタクはどのような場所においても主流派を形成せず、強力に排他的、限定的、身内主義的でもある。オタクカルチャーへの参入には、その独自の美意識(あるいは、独自の「美意識の無さ」)において、高いハードルが築かれる。それはだから、ポップとなることを拒否している。拡散力が強いと同時に排他的である。この両面合わせてはじめてオタクカルチャーなのだと思う、
ここで、「ポップ」を「リア充」と言い換えてしまうとちょっと言い過ぎだけど、例えば中村ケンゴさんが、ソニック・ユースのアルバムジャケットにリヒターが使われているのをみて「おーっ」と感じることや、永瀬恭一さんのやっていた劇団の名前が「エディット」であったことなどは、「ポップ」と言っていいと思うけど、オタクにはそのような「ポップ」への拒否の感触がある。以前、村上隆が「オタク遺伝子がない」と批判されたりしたことがあったが、それはおそらく、「アートのやつらはポップとオタクの区別がついてないのだ」というオタク側からの抗議なのだと思う。ハミルトンも、ウォーホルも、ラウシェンバーグも、そのイメージはまったくオタク的ではない。オタクカルチャーには、ポップというよりは、どちらかというと真逆の、かつての土着的前衛に近い感触があるのではないか(その「痛さ」においても、ある種のナショナリズム的感触においても)。あるいは、拡散的かつ排他(秘教)的という意味では、シュルレアリスムに近い感触なのかもしれない。
シンポジウムで、モダンとポップの対立は偽の対立だという話があった。それはまったく正しいと思う。モダンによる「大地」からの切断がなければ、そもそもポップは成り立たないのだから、それは連続的なものだろう。むしろ、「モダン・ポップ」と「オタク」の間にこそ、対立というのとは違うけど、ある種の「相容れなさ」があると思う。
それは、ポップなものが主に「広告」や「雑誌」や「ジャケット」という媒体によって可能になったことと、オタクカルチャーの拡散がインターネット環境によって可能なになったという違いからもうかがえる。ポップアート的な(雑誌的、広告的、スーパーフラット的)手法では、オタク的イメージ(そこには、複数のレイヤーを統合し、フィックスするための支持体となる「平面」が見出せない)を捉えることが出来ないのではないか。