●昨日の日記で最後に触れたドイッチュの「計算不能」についての話(『世界の究極理論は存在するか』6章より)は、排他性の排除が、かならずしも「答えがない」、「答えが曖昧である」という形をとるわけではないことを示している。「答えは明確に(排他的に)ある」が、「それを知ることは決してできない」ということは、「排他的である」ことと「排他性が機能しない」こととが、まったく「曖昧ではない」形で同時に成立するということではないか(ただドイッチュの本では、計算不能な領域は物理的実在からは除外されているから、ぼくの解釈はドイッチュの正確な読みというところからは逸脱している)。
決定不能であることと計算不能(かつ決定的)であることの微妙な違いは大きいように思う。ペンローズが、意識の根拠を「決定不能(曖昧さ)」ではなく、「決定的かつ計算不能」であることに求めていることが、例えば見慣れているポストモダン的な理屈の構成と違っているところがぼくには目新しく感じられる。
●そしてそのことは、おそらく次の引用と関係があるのではないか。引用するのは、郡司ペギオ-幸夫によるクリブキ『ウィトゲンシュタインパラドックス』についてのコメント。
《足し算一般と、2+5のような個別的計算を接続できるか、という問いによって、我々は規則に従っているか、と問われる。ここに出現する懐疑論者は、接続できないと示すために、未知の数を、具体的な数によってモデル化する、という禁じ手を使ってしまう。しかし、それこそが、実は仏陀の微笑である。未知の数と具体的数が、ぴったり一致してしまうような概念装置を導入し、それを媒介者とすることで、加法一般と個別的計算の接続を試みるのだから。接続が成功するか否かではなく、接続可能と論証できる、あるいは不可能と論証できる、とするために、仏陀の微笑が使われるのである。
しかしクリプキ自身は、おそらく、媒介者=仏陀の微笑に気づいてない。だから一般と個別の接続において、我々は常に暗闇の中の跳躍をし、共同体が必要であると説く。暗闇の中の跳躍は、ドレツキにおける置換知覚に符合してしまうのだ。》
●ドイッチュにおいては無限との関わりで顕在化した計算不能は、ここではタイプとトークンの接続(ある「個別の行為」が「規則に従っている/いない」ということは証明できない)の問題として現れている。そして、そのような計算不能な問いに現実のなかでなぜか「答え」を与えてしまう媒介者(仏陀の微笑)のことが言われている。
ドイッチュにおいては、クリブキ(ウィトゲンシュタイン?)的な、「規則に従っていること/いないこと、を証明できない」という問題は無意味なものとして退けられるだろう。重要なのは未解決の問題に対して「(包括的でシンプルな)最も優れた説明」を見出してその「証拠」を示すことであって、その根拠を「証明する」ことではない。今ある説のライバルたり得る説明体系を持たない単なる懐疑的な反証(証明してみろよ、証明できねーだろ、的な)は「優れた説明」の発展に貢献しないから意味がない、ということになるのだと思う。ドイッチュの考えは、懐疑論の否定としてはとても説得力がある(『世界の究極理論は存在するか』の7章参照、まだそこまでしか読んでない…)。
●郡司ペギオもクリブキには懐疑的だが、その意味は違っている。それはどちらかというとペンローズの理屈に近い感じがする。ある個別の行為が「規則に従っている/いない」という問いは、計算不能だが答えはどちらか一方である。だがその時、原理的には計算不能なはずのその問いに「従っている」「従っていない」という答えをその都度導き出してしまうものとして「仏陀の微笑」という媒介項があり、そのようなものこそが(ドイッチュの言う意味での)「実在のファブリック」であるということになるのだと思う(だからここでは、再び排他性が導入されるのだが)。
ここで、その都度導かれる答えを「偶発性」のようなものとして考えると、その新鮮さがなくなってしまう。そうすると俗流ポストモダン的な決定不能(曖昧さ)の問題となってしまって、「決定的かつ計算不能」ではなくなる。ここで郡司ペギオが言っているのは恐らく、計算不能なはずの問題の答えが個別な出来事として導かれるたびに(一つの排他的帰結として)「その都度新しい世界の姿」が立ち上がる(開かれる)のだが、その「新しい世界」は、実在(実在のファブリック)としては既に決定済みのものでもある、ことになるということではないか。絶対的に新しく、創造的で、未知のものでありながら、実はそれは既に決定されていた。そのような出来事を「仏陀の微笑」と言っているように読める。
クリブキではここで、規則と個別をつなぐものとして、一方に「暗闇への跳躍」が、もう一方に「共同体」によるその承認が根拠として必要されるのだが、そんなものは必要ない、というか、跳躍や共同体は結果であって、根拠は「仏陀の微笑」なのだというのがおそらく郡司ペギオの立場なのだと思われる。そして仏陀の微笑とはおそらく「二人称」のことなのだ。
●コメントの引用は以下から。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/bookfair/prpjn67.html